「限界の思考」を読む

やっと「限界の思考」(ISBN:490246506X)を手に入れて読む。私は新刊はなかなか買わずに評価を待つ習慣があるが、これは珍しく待てずに買ってしまった。それにしても、この内容にこの分量でこの値段はお買い得すぎる。本への評価が厳しい私でも買ってよかったと思える。たいていは前もって立ち読みして厳選しても買ったのを後悔することが多いのだが。
私に面白かったのはルーマン話。宮台氏が参考にしたというルーマン「情熱としての愛」を読みたくなってしまう。とはいえ、その成果である「サブカル神話解体」への私の評価はさして上がらないが(文化研究としてはどうしても佐藤郁哉とかブルデューとかと比べるとちょっとねぇ…。皮肉かもしれないが、あれはカタログとしてが一番便利)。他にもいろいろあるが、それは別に機会に。
というとこで、ちょっとダメ出し。宮台真司哲学史の知識は怪しい。前々から思っていたけど、一体どこから仕入れたものなんだ。結構偏ってる。重箱の隅をつつくようで悪いが、アウグスティヌスvsアクィナスってなんだよ、時代が離れすぎ(他は隣接なのに)。中世の主意主義vs主知主義ならドゥンス・スコトゥスvsアクィナスだろ。主意主義アウグスティヌスなのはまだいいけど、ニーチェは偽善的なアウグスティヌスが大嫌いだって知っているのだろうか(新プラトン主義を挙げる方がまだましだ)。他にも突っつくと切りがない。彼が教養としての歴史を提案しているだけにこれはまずい。これを読んでいると、二つのアイロニー観を哲学史によって正当化しているが、実は逆に自分に都合よく哲学史を読み替えてるだけじゃないのか。それにデリダではないが、事後的にはアイロニーとベタは必ずしも区別がつかない。プラトンだって丁寧に読めば実はアイロニーだったと十分に言い得る(エロスとイデアの関係。また、宮台氏がよく言っている「ノリの悪いプラトン」たって、プラトンが元悲劇作家志望で、彼の対話編が他人の文体を真似たパロディーだらけだって知ってるの?)。
宮台真司ひとりで何もかも背負おうとしすぎ、その結果がアイロニーなのだろうが。もうちょっと無理に手を広げずにできないのかな。無謀というより無茶だ(必要なのは理論と実践を一人で背負い込むことではなく、別々にある理論と実践をつなぎ合わせて活性化させることじゃないのか)。まぁ、そこがおもしろいって言えば、それまでだが(見世物かよ)。
それにしても、私たちの社会は自由を志向する古代ギリシア型から平和を志向する古代ローマ型に移行しているのかもしれない。しかし、システムの提供するパンとサーカスで暮らすしかないとはいえ、そのシステムを供給するエリートが必要な事に変わりがない(ローマ皇帝と後期ストア哲学との関係)。それにしても、北田氏は宮台氏への批判者としてはなかなか鋭いと思うが、それ以外を比べるとどうしても見劣りしてしまう。