私の進化心理学への不信の理由

社会生物学系の進化心理学を私が好きのなれない理由の一つとして、人間が人間を扱うときに生じる循環や再帰性に対して鈍感なせいがあるかもしれない。人間以外の生物を扱っている限りは客観的な観察者の立場を保てるかもしれないが、いざ人間を扱うとなるとそうはいかない。私は「ゲーデルエッシャー・バッハ」で認知科学に興味を持った者なので余計にそう思う。彼らの文章を読んでもそういったことへ配慮が感じられることは少ない。ただし一応指摘しておくと、ある種の社会科学にも全く同じ事は言える。進化心理学の批判する社会科学がレベルが低いものなのも確かだ(英米の社会科学が比較的レベルが低いせいもあるが、もっとレベルが高い社会科学もあるって)。
だいたい社会生物学やそれに準ずる進化心理学は、自分のことを理解してもらいたいと他人には主張するくせに、認知科学や社会科学などの他分野の科学をきちんと理解しようとする気をほんとど感じない。少しは勉強しろよ。でもまあ考えてみれば、社会生物学論争のときも認知科学はほとんど関わらなかったし、社会生物学系の進化心理学に関わる認知科学者もそんなに多いとは思えない(ピンカーやデネットはあからさまだがよく目に付く有名どころではそれぐらいか。ピンカーと共著論文を書いていながらジャッケンドフは実はけっこう微妙?)。
そういえばエドワード・リードが、心理学には問題を解決しようと他分野からの参入が相次ぐがたいてい彼らは問題点を勘違いしている、と言っていたが認知科学も似たようなものなのかな