進化論への言語ゲーム的な理解

言語ゲームは後期ウィトゲンシュタインの著作「哲学探究」で提出された用語である。はっきり言ってしまうと、言語ゲームという用語は多くの人に使われているが、当のウィトゲンシュタイン自身がきちんと定義してない上に、この用語を多様な文脈で用いているので、この用語を説明するのは困難だ。ネット上を探しても適切な定義はなかなか出てこない*1。しょうがないので、まず言語ゲームの特徴を説明した後で、それを進化論の理解へとつなげてみたい。
ここで言語ゲームを本格的に説明する気はまったくない。するのは一部の特徴への言及である。語を正確には定義できないことは言語ゲームから帰結することでもあるが、それは置いとく。言語ゲームの特徴は規則が前もって決まってはいないことである。「あいつは賢いよな」と発言したとき、その言葉を文字通りに受け取れば「ある人物が賢い」ことに関する記述や報告である。しかし、相手がこれを皮肉や冗談と受け取ることもできる。前者と後者で「ある人物が賢い」という命題の真偽は全く逆になる。「俺は宇宙人と会った」と発言したとき、「どこで会ったんだ」とそれを事実と受け取ることもできれば、「そいつは何科の動物だ」と冗談にすることもできる*2。この場合、発言者がどう思って発言したかは関係ない。「俺は宇宙人と会った」としつこく言い張ってもおかしなやつだと無視されるだけかもしれない(または逆もあり)。ある言葉を発したとき、それが報告の規則の下でなされたらその言葉は真だろうし、それが冗談の規則の下でなされたらその言葉は偽だろう。しかし、その言葉が発せられた段階では適用される規則が確定されないので、その真偽は分からない。その後の展開を見て初めて規則を推定できる(ただし確定はできない。その後に適用したその規則が否定されるかもしれないからだ)。言語ゲームの特徴の一つは、このように言葉の意味は事後的にしか分かりえないということである*3。言葉は事後的に「報告であるか」または「冗談であるか」のように振舞うことでしか意味を限定できない。
さて進化論だ。進化とは生物の行動や形態のうちでより適応的な行動や形態を持った生物だけが(遺伝子を伝えることで)その行動や形態をのちの世代に残すことができることだ。ここで注意すべきことは、どの行動や形態がより適応的であるかを前もって知ることはできないことである。前もってよく見えるように目が設計されていたりするわけではない。様々な目を持った生物のうちで比較的よく見えて適応的な生物だけが生き残って子孫を残せる。しかし、どのように見えるのがより適応的な目なのかを前もって知ることはできない。同じように、どのような行動に出ればうまく食料を探せるかは前もっては分からない。だから様々の戦略的な行動にでる生物が出てくるわけだが、どの行動が有利かは餌がどこにあるかといった生活環境だけでは定まらない。他の生物がどのような行動に出るかによってもどの行動が有利かは異なる。餌を溜め込む生物だっているはずだし、いい餌場を守る生物だっているかもしれない。当の食べられる方の生物だって他の生物に食べられないように、逃げ足が早くなるかもしれないし、体内に毒を生成するかもしれない。お互いに食べられるか食べられないかは相手の行動しだいで決まる。つまり、ある行動が適応的であるかどうかは、他の生物がその行動に対してどのような対応をするかによって事後的に決まる。例えば、ある植物が体内で毒を生成して他生物に食べられなくなって繁栄しても、ある昆虫がその毒を中和できる手段を持っていてその植物を餌にできるかもしれない。この場合、前もってその毒を中和できる手段が作られたわけでなく、様々な形態の昆虫が出てきた結果としてそのような手段を持った昆虫が生き残ったに過ぎない。適応的な形態が残るのは(他生物の形態との関係による)結果論に過ぎない。このような行動や形態の意味の事後的決定の考え方は言語ゲームの考え方に実は近い*4

おまけ

私が社会生物学寄りの進化心理学に感心できないのは、こうした進化上の文脈をあまり考慮に入れず、ある行動や形態が生存の役に立つかどうかを一所懸命に合理的に説明してるようにしか見えないことがあるからかもしれない。もちろんすべての進化心理学がそうだとは思っていないが、そう思わせるのを多く見かけるというのが私の印象だ。社会生物学はこうした進化上の文脈の一部を取り出す手段としてはとても優れていると思う。しかし、進化上の文脈とはかなり複雑なものだということはもっと配慮されてよいはずだと思うのだが(生物の種の問題と普遍論争およびクジラやイルカの進化も参照)。

*1:試しに検索してください。はてなキーワードの説明はましな方だが、いまいち要領を得ない気もする。しかも引用は言語ゲームへの言及箇所ではないし(この引用はむしろその直前)

*2:分かりにくい例ですいません。思いつかないもので

*3:ウィトゲンシュタインは「意味は事後的にしか分からない」のを強調するのに対して、ハイデガーは「意味は前もっては分からない」のを強調しているようにも私には思える。これらが意味しているのは同じような事態だが、その捉え方の側面が異なる。

*4:後期ウィトゲンシュタインに依拠するデネットが進化論を支持する理由はこんなところかもしれない。私はデネットの著作の熱心な読者ではないのでよくは分からないが