心理学の危機再び、または学際分野としての認知科学の解体(素描)

注:あくまで素描なので、様々な知識を勝手に前提にして書いています。ようするに、ただでさえ書くのが厄介な内容なのに、その上に丁寧に説明するのは面倒(それでなくても、言及すべきなのに抜けてるところはいろいろありそう)。ご了承ください。

生理学的な心理学と解釈学的な心理学

心理学には外部からの介入が多いが、(昔のゲシュタルト心理学の例外はあるが)その多くが心理学の問題を勘違いしたものである。認知革命は本来その問題意識を取り戻すためのものだったのだが*1、いつの間にか手段と目的とが勘違いされるようになった*2。結局、未だに生理学的な心理学と解釈学的な心理学という昔ながらの対立は全く解消してない。

脳科学と遺伝学における還元主義とその裏返し

心理学を理解するうえで生物学が必要なのは確かだが、どのように必要とされるのかには問題が絡む。遠い将来的にはどうであれ、当面は心理学を生物学に還元するにはその溝が大きすぎる。実証的に分かる(観察可能な)人間行動や認知機能と脳や遺伝子との関係は、(緩い)対応関係であって因果関係ではない。例えば、ある感情状態にあることとある脳内物質が出ていることとは、ある人の状態に対する別々の側面からの記述でしかない(現象学的的記述と神経学的記述とは重ね合わせられるに過ぎないが、同じように行動学的記述もそれらに重ね合わせることが出来る)。行動遺伝学*3のような分野でも一般知能なるものの存在そのものがあやしいなどの測定尺度上の問題がある。実験動物の行動に置き換えても問題は同じ、分かるのはあくまである具体的事項における統計的差異だけだ(その差異が何を意味しているかは別問題だ。この辺への認識が甘く思えることがある)。だいたい遺伝子と行動との関係はまだよく分かっていない(一応注意しておくと、このことは生得的な要因を否定しているわけではなく、安易な還元思考への戒めでしかない)。また、クオリア論は人間行動や認知機能の脳や遺伝子への還元論をそのまま裏返しただけの議論でしかない*4。実のところ、その内実は昔の行動主義か内観法かの区別とそれほど変わりはない(複雑になっただけ)。
認知科学神経科学との溝を埋める理論が必要だが、その溝は思われている以上に深い*5

循環への認識なき解釈学としての進化心理学と社会構成主義

人間が人間を説明する上で生じる循環を気にも留めずに、人間行動や認知機能を解釈的に説明するのが進化心理学と社会構成主義であり、これは昔の精神分析と同じ位置に当たる。

進化の総合説による革命と進化心理学の変節

進化の総合説の基礎であるネオ・ダーウィズムは生物学を統一するための革命であり、ハミルトン辺りに始まる社会生物学はネオ・ダーウィズムの純粋な応用の成功例であった。しかし、ネオ・ダーウィズムに則らない進化的適応の説明の氾濫が進化心理学を解釈学化させた(進化論への言語ゲーム的な理解を参照)。それ以前に、そもそも進化心理学社会生物学とはもともと種と変異の関係について相容れない要素を持っていたはずだが、それもいつの間にかうやむやにされてしまった(もともと進化心理学には人間の種としての共通性が前提とされていたが、社会生物学は必ずしも種の存在をうまく説明できているわけではない)。そのことによってモジュール論としての進化心理学のもともと持っていた長所まであやふやになってしまった。進化論が認知科学にとって重要なのは確かだが、こうした混乱状態を考えると(プレマックの言う通りに)新しい生物学の統合原理が必要なのかもしれない。
だいたい、巷の進化心理学の話は日常概念への依拠が強すぎる。言語学は生物学を前提にした分野で生物学の方が優位な立場だ、といった議論を読んだことがあるが、あまりに懐疑心に欠けた傲慢な話だ。進化の話をする上で日常的な概念は普通に用いられるが、これはちょっとあやしい。日常的な概念とは私たちが生きている今この世界でこそ成立しているものであって、それがそのまま進化上の過去の全く条件の違う世界にそのまま当てはまるわけではない(アルチュセール理論への大雑把理解 も参照)。これは特に人間に関する進化心理学的な話で問題になる。人間以外の動物の進化話で使われる日常概念ならば、問題がありそうなときでもせいぜい比喩にすぎないで済むが、人間に関するとなると、特に他の動物との違いがはっきりと出てくる人間の高次機能に関わる話となると、問題が生じる。
例えば、進化論による宗教の起源なんて話はよく聞くが、そこで言われている宗教が現在(少なくとも有史以降)の宗教とどう関係するのかとなるとあやしい。たしかに神秘的体験が人々を結び付けて有利に働いたなどの事態が進化上に起こりえるのだと仮定しても、それが現在(少なくとも有史以降)の宗教とどう関係があるかとなるとよく分からない。そこで語られることは論者の独自の宗教の定義とつながってしまう。ただでさえ宗教をきちんと定義するのは難しいのに、その辺の書き方が不注意だと誤解をされるのは当然だ。こういうときは、宗教活動だの言語活動だのにあるこういう機能は進化論的にこう説明できる、と説明している範囲を定めるのが妥当な書き方だ。人間の高次機能は進化的に生じたと認めるにしても、人間の高次機能に関連したことに対して安易に進化的な起源を語ることにはあまりに罠が多い*6
*7ちなみに、文化を政治的に説明する社会構築主義でもあまり事情は変わらない。さすがに理論的にはマトモだが、フーコーやサイードのようなきちんとした文献研究を出来る人はあまりいない。他人の意見の持つ相対性を懸命に指摘していたって、そもそもこの世に何の偏見もない人物など存在しない。

認知科学の基礎としての機能主義と構造主義

これからする議論を前もってまとめておこう。デヴィット・マーの説に則って言えば、機能主義はソフトウェアとハードウェアの問題を解消し、構造主義は計算論とアルリズムの問題を解消した、といえる。つまり、機能主義にとって重要なのはソフトウェア*8であってハードウェア(金属?たんぱく質?)が何であろうとどうでもいいことだ*9構造主義が示唆するのは、認知理論は計算論のレベルの話であってアルゴリズムのレベルの話ではないことだ。

モデル作りとしての認知科学(還元主義に対する機能主義の革命)

科学にとって理論は必要である。実証的な研究成果を単に集めるだけでは科学的理解は深まらない。科学とは単なる帰納的学問ではない。実証なき科学にも価値はないが、理論なき科学にも同様に価値はない。
行動主義は心理学が実証的な実験科学として確立するのに重要な役割を果たした。しかし、そもそも人間を対象にした実証研究ではなかった上に、その前提としての制約があまりに厳しくて説明力が弱かった(チョムスキーのスキナー批判を参照)。ピアジェは心理学実験の方法的自由を示唆したし、チョムスキーは積極的な理論構築の可能性を提示した。表に現われる行動が同じならそれらは区別がつかない(だからモデルと現実は同じと考えてもよい)とするプラグマティックな機能主義の考え方*10は、心理学を物理学を規範とするハードサイエンスの軛から解き放った。と同時に、機能主義の考え方によって学際的研究への道も開けた。機能主義はその(行動や言語などの)現われだけを見ることを許すので、様々な分野からの多元的証拠の提示が求められる*11

パターン学への転換としての認知科学(解釈学に対する構造主義の革命)

もともと物理学は法則を見つける法則学だったのだが、カオス理論に代表される複雑系革命によってパターン学への転換が生じた。認知科学に起こったのもこれと同じ動きだ*12
ピアジェチョムスキーに代表される科学的構造主義*13で用いられたのは代数的構造であり、ギブソンの生態心理学はある種の解析学的な構造(例えば面の肌理など)に関わっている。ヴィゴツキー認知言語学などによる構造主義の対抗理論はパターンの複数化を試みており、実体思考に抗する関係思考という構造主義の考えは前提にされている*14。サイモンやノーマンによるデザインの心理学の要点も同じところにある。チャンクによる短期記憶の容量限界や判断のパターンなどは心の情報処理の持つ構造である(モジュール論やコネクショニズム論にも同じように当てはまる)。(言葉や感覚などの)情報の流れが生ずる心の構造に沿ってデザインはなされるべきなのだ(ギブソンの場合、情報の流れは外にあるのだが)。認知科学は因果関係を見つけるのが目的ではないのであり、その点では人間の持つ自由が初めからある程度許容されている(科学的構造主義には構造と精神の関係(比喩的に言えば精神が構造の中を動く)があり、解明が目指されているのは構造の側であって、それについて語ると循環が生じる精神には直接は手を付けない)*15

学際分野としての認知科学の解体

認知科学の各領域の専門分化が進んでいる。共通の方法論としての情報処理アプローチの崩壊によって、生理学的な心理学と解釈学的な心理学とへの分裂は生じた。それ以外で目に付くのは応用領域における理論的レベルの低い思いつき話ばかりだ(下らないアフォーダンス論を参照するぐらいなら、経験と才能に頼ってデザインする方がマトモ。ただし、学習科学は認知科学の正当な応用分野だが、単なる共同学習論と勘違いされているところがある)。その上、認知科学の両側には、あまりに厳格な科学主義者とあまりに厳格な人文主義者という(認知科学への誤解の多い)やっかいな人たちに挟まれている(いや、そもそも認知科学の内側にだってそうした人たちはいる)。せっかく認知革命で獲得したはずの理論的なレベルは今や低くなるばかりだ。

  • 想定される続編の項目

機能主義の問題(機械論的な機能主義を超えて)

入出力概念にいろいろ問題があるの事実だが、端的に入出力を退ける俗流のオートポイエーイス論やアフォーダンス論は意味が分からなくてお話しにならない。ギブソンやヴァレラが批判したのが要素主義的な入出力概念であることに注目しよう。

構造主義の問題(複雑なシステムを扱うために)

構造概念に限界を感じて、複雑系やダイナミック・アプローチに行くのは理解は出来る。しかし、これらはそれほど応用の利く方法ではないし、ただらしいだけの曖昧主義におちいりがちだ。個人的にはあまりお薦めしないが、どうしてもというなら心して挑む覚悟が必要だ。

*1:この辺りの事情は認知革命の当事者ブルーナーを参照。彼のナラティブ・アプローチには、意味を扱っていたバートレットに還れというメッセージが隠されている気がする。バートレットに関する説明は省略

*2:勘違いする人がいるが、認知心理学とは、発達心理学教育心理学と同等に並ぶ分野ではなく、発達心理学教育心理学の中に認知的な方法や理論があるのであって、認知心理学と同等に並べるのに相応しいのは行動主義心理学の方だ

*3:行動遺伝学は心理学であると十分に言えるのだが、生物学的説明の導入の例として取り上げた

*4:一応言っておくと、機能主義と還元主義とは全く異なる。還元主義はまだしも、機能主義の否定は今のところ実証的科学研究そのものの否定だ。ただし注意しておくと、ここで言っているのは説明のための理論の問題であって、実証的態度としての還元主義はありだ。つまり。説明論としての還元主義は拒否するが、方法論として還元主義は全然構わない。ここでさらに、近年の意識研究が脳科学へと専門化されており本来の認知科学とは分けて考えた方がいい、といった話題も出来るような気もするがやめておく

*5:エーデルマンやヴァレラなどの偉いところはそうした溝を埋める理論を提示しているところだ

*6:ちなみに、外適応説は、系統的な説明(例えば、ヒレだった部分が手になりましたみたいな)がうまく出来ない部分の多い人間の高次機能では、任意の説明が可能になりすぎるのであまり解決策にはならない

*7:もともとここには以下の文章が挿入されていたが、記述に問題があるのに気が付いて本文からは削除することにした「実験社会心理学の革命と社会構成主義の出現:実験社会心理学の出現は認知革命と共に1960年代前後に起こった革命であった。ハイダーやフェスティンガーのような社会的認知説の先駆者がいたにもかかわらず、社会心理学認知心理学は別々に発展してしまった。野外に出ることが先であった実験社会心理学と理論と方法が先にあった認知心理学との違いが出てしまっている。統合的な説明原理なき面白実験の集まりか、社会的刺激の認知心理学と化した社会的認知か、の不毛な選択は、社会心理学からの社会構成主義の出現を促した。しかし、社会構成主義は方法的にも理論的にもあまり洗練されていない単なる解釈学でしかない(心理学者の多くは実証には強いが理論には弱い)。」ガーゲンの著作で社会構成主義は解釈学ではなくて実践だとあるのを見てあきれてしまった。学者のお仕事って一体何?

*8:哲学者パトナムによる機能主義への批判であるソフトウェアのレベルでの多重実現可能性もあるが、ここでは問題にしない

*9:ソフトウェアとハードウェアとを分けることに違和感を感じる場合は、記述のレベルの問題と言い換えても構わない。要素のレベルとシステムのレベルでは記述のレベルが違うと。これは因果論的な機能主義の帰結でもある

*10:注意しておくと、ここで言っているのは認知科学の機能主義であって、社会科学の機能主義ではない。「〜のために…」といった思考法そのものは認知科学では目的ではないはず(せいぜい補助)

*11:注意しておくと、以前の狭義の機能主義とは違って、心を計算可能とする強い人工知能を意味しているわけではない。ここで語っているのはもっと抽象的な内部状態を想定するだけの広義の機能主義(因果論的な機能主義)だ。とはいえ、最近は機能主義の欠陥を自然主義という言葉で穴埋めする哲学者がいるが、そこで言われている自然主義が何を意味しているかがよく分からず、その内実は単なる誤魔化し(自然科学への懐柔?)だったりする

*12:この論考では解釈学的な動きを批判しているが、これは科学の解釈学化を批判しているのであって、(人文的な)解釈学そのものへの批判ではない

*13:科学的構造主義はフランス構造主義とは区別される。レヴィ=ストロースはその転換点

*14:ちなみに、レヴィ=ストロースブルデューとにも似た関係があるが、彼らの理論を認知科学と呼ぶ人はあまりいない。しかし、ハワード・ガードナーがレヴィ=ストロース認知科学と関連付けているので、彼らを持ち出すのはそれほど無茶な話ではない。それから、同じく人類学でも状況論的アプローチはここでは説明を省略したが、実は似た説明が当てはまる(公準としての目印を見つけよ!を参照)

*15:ちなみに、進化心理学は当初はパターン学としての基盤部分がしっかりと残されていたのだが、21世紀に入ったあたりからあやしくなり始めた。おそらく認知科学にはもう一回ぐらい革命が必要なのかもしれない(そのあかつきには、ここで述べた認知科学の特性が他の学問分野でも当たり前のものになり、認知科学という領域そのものは必要なくなるかもしれない…と考えるのは私の夢想だろうか?)