C.S.パース「記号とは何か」から冒頭部分

1、これは最も必要な質問である、なぜならすべての推論はある種の記号の解釈だからである。しかし、それはかなり難しい質問でもあり、深い省察を必要とする。
心の異なる3つの状態を認める必要がある。第一に、夢を見ている状態の人を想像しよう。彼が赤い色以外には何も考えていないところを考えてみよう。それについて考えていないところ、つまり、それに関する質問に答える事を求めていないところ、それが彼を喜ばせるなんて彼自身にも言えさえしないところ、しかし彼の空想がそれを生み出す程それをじっくり思っているところ。たぶん、彼が赤にうんざりしたら、彼は何か別の色に変えるだろう。トルコ石の青とか、バラの色とか;しかし、もし彼がそうしたら、それは理由も強制もない気晴らしの空想においてだろう。これは、何かが現前している心の状態にだいたい近いだろう、強制も理屈もないのだから。;それは感じと呼ばれる。目覚めからの半時間を除けば、実際には誰も、純粋で単純な、感じ(feeling)の状態にはいない。しかし、私たちが目覚めているときならいつでも、心には何かが現前しており、何かしらの強制や理由に因らなければ、現前するものとは感じである。
第二に、その夢見人が突然に騒々しく長く続く汽笛を聞いたと想像してみよう。それが始まったとたん、彼はびっくりする。彼は本能的に逃がれようとする。彼の手は自分の耳へと行く。それが不快という程でなくても、ついそうしてしまう。本能的な抵抗はその一部として必要である。その人は自分の意思が圧倒されていると感じはしない、もし彼が圧倒されたと自分に言い聞かさなければ。私たちが外側の抵抗に抗して自分自身を操作したとしても、それは同じことである、私たちが力を働かせている何かに抵抗を感じないときを除いては。この行なっているとか行なわされているとかいう感覚、物の現実への私たちの感覚─外側の物と私たち自身の物とのどちらでも─、これは反応の感覚と呼べるだろう。それは何かある感じには属さない。それはある感じを別の感じが打ち破ることになる。それはお互いに及ぼしあう二つのものを本質的に必要とする。
第三に、今や目覚めた夢見人を想像しよう、彼は突き刺さる音を締め出すこともできず、駆けずり回って逃げられるドアを探し始める。しかし、その人がドアを開けた瞬間に汽笛が止んだようである。ほっと安心して、彼は自分の席に戻ろうとまたドアを閉めようとする。しかしながら、そうするとすぐに汽笛が鳴り始める。彼はドアを閉めたことが何か関係があるのかと自問する。もう一度その不可解な門を開ける。彼がそれを開けると、音が止む。彼は今や第三の心の状態にある。彼は「考えている」のである。つまり、彼は学ぶことに、または過程を調べる事で法則に支配された現象を発見したことに目覚めた、または振る舞いの一般的に認められる方法を身につけた。ある動作には別の結果をもたらす意味又は媒介があることが彼には分かった。この第三の心の状態は他の二つとはまったく異なる。第二のには、獣的力の感覚しかなかった。今や、一般的法則による統治の感覚がある。反応においては二つの物しか関わっていないが、統治においては目的に対する手段である第三の物がある。まさに手段(means)と言う言葉は他の二つの間を媒介する何かを意味する。さらに、この第3の心の状態、または思考とは学習の感覚である。そして学習とは、私たちが知識への無知を追い越すための手段である。最も基本的な反応の感覚には二つの感じの状態が含まれていたが、最も基本的な思考には三つの感じの状態が含まれていると分かるだろう。私たちが主題へと進めば、初めの把握ではあいまいだと思われるそれらの考えはよりよりはっきりと抜きん出てくるだろう。非常な重要性が私たちの心に訴えかけてくるだろう。
2、私たちが物を取り込む関心には三つの種類がある。第一に、私たちはそれのためにそれ自身に根本的な関心を持つだろう。第二に、私たちは他の物との関係を考慮するために派生的関心を持つだろう。第三に、それが物についての観念を心に運ぶ限りで、私たちは仲介の関心を持つだろう。それがそうする限りでは、それは「記号」または表現である。
3、三種類の記号がある。第一に、類似またはイコンがある。これは、単に真似ることによって表現している物事の観念を運ぶ。第二に、指示または指標がある。これは、物理的に関係することによって物事に関する何かを表す。道しるべのように行くべき道を指し示したり、関係代名詞のように示そうとする物事の名前の後に置かれたり、「ああ、そこだよ。」のような呼びかけの叫びによって彼が注意を向けている人の神経に働きかけたりする。第三に、象徴または一般的記号があり、用いることでその意味と結びつける。たいていの言葉、文句、話、本、蔵書のように。この三種の記号の様々な用法についてもっとじっくり考えてみよう。
(訳注:この後もう少し翻訳してからの挫折だが、区切りがいいのでここまで)
"What Is a Sign?" Published in part in The Collected Papers 2.281, 285, and 297-302. This work probably composed early in 1894

訳者解説

以前にたまたま本屋にあった雑誌のパース特集を立ち読みしてがっくりしたので、しょうがないので私が以前に自分のホームページ用に途中まで訳したパースの文章を公開します。面倒なので手直しはしてません。もともとは全四回の連載予定でしたが、ほぼ一回分で挫折。それでもそれなりに読めるので公開もOKかと。
それにしても。パースの日本での紹介の不遇具合には目を覆うものがある。そもそもろくな翻訳がない。著作集の翻訳はあるけど断片的な編集なのでお薦めできない。岩波文庫に講演集の翻訳があって訳は悪くないけど、あれでパースを理解しろってもかなり無理がある。代表的な論文を集めた翻訳(中央公論社の世界の名著シリーズ)もあって(もし手に入るなら)今のところはこれしかお薦めできないが、かなりひどい誤訳と省略に耐えることができればという前提付だ。
ちなみに、ここで翻訳した文章の原文はパース入門としては短くて分かりやすいのでお薦めです。英語が読める人はぜひ読んでみましょう。パースにしては読みやすい英文です。
原文はネット上の以下のアドレスにあります。
What Is a Sign? http://www.iupui.edu/~peirce/ep/ep2/ep2book/ch02/ep2ch2.htm

おまけでパ−ス関連のリンク集。

以前パースに夢中になったときに探し出したサイトです。もちろん全て英語のサイトです。
ARISBE: THE PEIRCE GATEWAY http://www.cspeirce.com/
とりあえずパースの総合サイト。いろいろなリンク集が便利。確かここにあったパースの生涯を扱った論文("The Wasp Leaves the Bottle")はとても重宝したような(今は分厚いパースの評伝の翻訳もありますが、それではきつい方はこちらへどうぞ)。
The Peirce Edition Project http://www.iupui.edu/~peirce/
パースの新全集プロジェクトのサイト。現在あるパースの著作集(Collected Papers)はとりあえずの性急な編集なのでいろいろ問題がある。いま刊行中のパースの新全集はきちんとした批判的な編集による完全版。ただし完成するのは何百年後になることやら。とりあえずの重要論文は選集(The Essential Peirce)として刊行されています。