心理学の概念的混乱は解消できるのか?

しかし、すべての苦闘を経た今、結局私は、心理学は心の哲学の制約を免れないと確証している、ウィトゲンシュタインは、そのちょっと気取った文章(「探求」)の一つで、心理学について次のように言う。

心理学の混乱と不毛は、それを「若い科学」とよぶことによって説明されるものではなく、その状態はたとえば初期の物理学のそれに匹敵するようなものではない。…というのも、心理学には実験的方法と概念的混乱があるからである。
実験的方法が存在するおかげで、われわれは自分たちを悩ませている問題を解決する手段をもっていると思ってしまう。問題と方法とは、お互いに関係がないのに。

心の性質と働きに関するわれわれの概念と言語を明確化しうる、そのより好ましい方法の問題を、もし哲学が扱うのなら、明らかにわれわれは哲学と提携していなければならない(どれほどわれわれが、その提携を内密にしておきたいとしても)。心についての洗練された哲学的思考の所産である矛盾とディレンマは、哲学者に対すると同じぐらい、心理学者にもその影を落としている。心の哲学の知に導かれて、われわれが自分たちのデータや実験計画にたどりつくということはあるまい。むしろ、この研究やあの研究を行ない、またこの別の理論を提出するといった場合に、われわれが自分の関心をせばめてしまい、取るに足らないことに足をすくわれそうになる、その取るに足らないことからわれわれを守ってくれるのが、心の哲学の知なのだと思う。
ジェロームブルーナ*1「心を探して」isbn:4622030640.211-212より

ウィトゲンシュタイン哲学探究」は好きな本だし、いろいろな解釈があることも知っているが、最近になってここに挙げたような問題が心底分かるようになってきた。ブルーナーは心理学者なので、ここで言われている「われわれ」とは心理学者のことだが、認知科学一般にも成立する。認知科学には様々な具体的研究があってそれはそれで好きだけれど、それらの具体的研究をどうまとめ上げればいいのかはさっぱり分からない。それを知りたいとは思うが、現在の哲学者がその任を果たしているとはとても思えない。でもこうした科学の哲学的問題って言うのは、物理学におけるマッハや進化論におけるマイヤのように当の科学者自身が行なうしかないような気もしてくる。哲学者は科学の現場に無知すぎる。まぁだからといって、科学者の側に哲学的問題を語れる素養のある人などめったにいやしないのも確かだが。

*1:ジェロームブルーナーはチョムスキーハーバート・サイモンと並べられる認知革命の立役者の一人