トロープと普遍概念

ある分析哲学の本の訳者解説を眺めていたらおかしな言葉の使い方を見かけた。論理記号付きの引用は面倒なので、普通の言葉に直してみます。

xが藍トロープを持っているならば、そのxすべては青トロープを持つ

これを認めてしまったら、トロープ概念を普遍問題に持ち込む意義が失われてしまう。トロープとは(主に私たちに感じられるような)物の具体的な特性である。赤っぽい色合いとかふわっとした風合いがそうである。これだとクオリアと似ている感じもするがもちろん違う。トロープは存在論的な用語なので、むしろトロープがクオリアの源と考えた方がいいくらいだ(ただし実際にはそういう議論はあまり見ない)。だから誰にも感じられていないトロープも存在する。ここで重要なのはトロープは普遍概念的に分類される以前の物の具体的な特性であることである。だから、色トロープや形トロープなどはまだありえても、藍トロープだの青トロープだのはありえない。あるトロープ(ある具体的な色合い)が藍や青と呼ばれるようになるのであって、いきなり藍か青かと分類したらおかしい。ただし、色や形は上位のカテゴリーなので構わないようだ(アリストテレスのカテゴリー論も参照)。藍や青のような普遍概念の位置づけが問題なのに、初めから藍や青と分類したらどうしようもない。
ちなみに、トロープ説は特に唯名論で知られているが、トロープはスコラ哲学では個別的付帯者(英語でindividual accident、accidentは偶有者とも訳される)に相当しうるとあるのを見ると、私の直観ではトロープ説は実在論とされるドゥンス・スコトゥスの説にも近い気がする(個人的意見なので信用しないように)。

  • 参照リンク

Universals [Internet Encyclopedia of Philosophy]
http://www.iep.utm.edu/u/universa.htm

  • 追記(08/10/21)

ここで出している例が色なので単なる主観的な問題だと誤解を与えるかもしれないがそうではない。普遍問題を理解するには、いわゆる自然種の方が例としてはふさわしい。例えば「人間」は普遍としてどう位置づけられるのだろうか。勝手にそう分類してるだけ?似ているものを分類してる?分類の根拠が世界の側にあるのか?普遍が文字通り存在するかみたいなつまらない問題では断じてない。