ブランダム「ヘーゲルにおけるプラグマティスト的主題」第一節を読む

ネオ・プラグマティズムとは何か-ポスト分析哲学の新展開-」を読んで以来、ブランダムの哲学にすっかり興味を持ってしまった。アマゾンのレビューにも書いたように「ネオ・プラグマティズムとは何か」という本に対する私の評価は微妙(悪い本ではないが問題も多い)なのだが、ブランダム論だけにははまってしまった。とはいえ、他の章よりは出来が良いとはいえそのブランダム論も読んでいる内に物足りなくなってきた。とりあえずネットで手に入る日本語で読めるブランダム論も一通り読んではみたのだが、あまり目新しい記述も見当たらずがっくりしてしまった。そこで現時点で唯一のブランダムの翻訳論文がある雑誌*1に載っていたことは分かっていたので、わざわざ少し遠くの図書館に足を伸ばしてその雑誌から該当記事をコピーしてきた。それでさっそくその論文を読んでみると(多少難解ではあったが)その内容の豊かさにすっかり魅了されてしまった*2
「ネオ・プラグマティズムとは何か」のブランダム論は日本語で読める解説として貴重ではあるが、著者の分析哲学への理解が浅いせいで正直物足りなかった。中でもブランダムのどこがプラグマティックなのかがさっぱり分からないのが特に困った。コピーしてきたその唯一のブランダムの翻訳論文が「ヘーゲルにおけるプラグマティスト的主題」という題名であり、それを知るにはまさにうってつけの論文であった。それにしても、カントにプラグマティズムを読み込むのならパースへの影響を考えれば自然に思えるが、ヘーゲルプラグマティズムを読み込むとはどういうことか。そこでブランダムの哲学史分析哲学の双方への造詣の深さが発揮される事になる。

「プラグマティスト・テーゼ」と「観念論者テーゼ」の関係を問う

ブランダムがこの論文で行なおうとしているのは、ヘーゲルにおいて「プラグマティスト・テーゼ」と「観念論者テーゼ」が結び付いていることである。それぞれのテーゼの説明は論文からそのまま引用しよう(以下ページ数のみはこの論文への参照)。

そのプラグマティスト・テーゼを私は「意味論的プラグマティスト・テーゼ」と呼ぶが、それは概念の使用がその内容を規定するというものである。すなわち概念は、使用によってそれに与えられる内容を離れては、いかなる内容をももち得ないということである。観念論者テーゼとは、概念の構造と統一性は自己(self)の構造と統一性と同一である、ということである。(p.113)

言葉の意味はその使用と結び付いているというプラグマティズムの考え方をより一般化したのがブランダムの「意味論的プラグマティスト・テーゼ」であり、そこは問題ない。それに比べると、「観念論者テーゼ」はかなり抽象的な説明で分かりにくい。これからこの論文でブランダムが行なうのはヘーゲルにおける「観念論者テーゼ」とは何かを説明し、それがどうプラグマティスト・テーゼ」と結び付いているかを論じることである。
ここで注意すべきは「観念論者テーゼ」は「プラグマティスト・テーゼ」を補完していることである。パースへのカントの影響を考えれば分かるように、カントにプラグマティズム的な要素が含まれていると考えるのは不自然ではない。ヘーゲルプラグマティズム的な要素があるとしたら、それはカントから受け継がれたものであり、そのプラグマティズム的な要素を完成させるためにへーゲル的な観念論が展開される事になる。「プラグマティスト・テーゼ」に対して「観念論者テーゼ」が補完関係にあるが、そうした関係はパースに対するクワインの関係にも見られる。クワインは有名な論文「経験主義の二つのドグマ」の第五節で、パース以降から受け継がれてきた意味の検証理論を感覚データへの還元主義として批判している。その結果としてクワインは各命題が独立して検証されるとする原子論を批判して全体論を提唱することとなる。ここでのパースに対するクワインの関係は、カントに対するヘーゲルの関係と同じく、批判的な補完関係にある事が分かる。
ここでブランダムの論文に戻ると、ブランダムはカントとカルナップに代表される論理実証主義を認識論的な二段階説として批判している(p.116-117)。つまり、概念の感覚データ(又は対象)との対応関係が既に定まっていて、その後でその対応関係に沿って概念が適用されるとする考え方だ(ブランダムの言葉を借りれば「その二段階構造とは、まず意味を想定し、ついで経験が、意味のどのような使用が真なる理論を生み出すかを決定する」(p.117))。既に見たようにクワインは「二つのドグマ」論文で、パースや論理実証主義で前提とされているこうした二段階説を批判している。ブランダムもこうしたクワインの二元論批判を受け継いで一元論的な理論を提唱しようとしている(p.117下)。

規定的判断力と反省的判断力との溝を埋める

同じ話を別の視点から見てみよう。ブランダムはカント哲学の不十分な点を判断力の側面から検討している。判断力とは特殊(具体的なもの)を普遍(抽象的な概念)に関連付ける能力である。カントは判断力を規定的判断力と反省的判断力の二つに分類している。規定的判断では既に定まった普遍があってそこに特殊を当てはまるだけであるが、反省的判断では与えられた特殊から普遍を発見することになる。ここにおいてカントは概念の確立と適用を分ける認識論的な二段階説を採用している事になる(p.116上)。
この辺りの事情をより理解するために、たまたま同時期に読んでいたアレントの判断力論から引用しよう。

彼女[アレント]が念頭においているのは「反省的判断力」に関するカントの分析である.反省的判断力とは、特殊について判断するさいに、特殊を普遍的な規則に包摂するのではなく、「特殊から普遍へと」昇っていくような判断の様式のことである。このような判断は、「他人の立場に立って考えること」を可能にするような「拡大された思考様式」を必要とする。「カントがきわめてみごとに述べているように、判断する人格は、最終的には自分に同意してくれるという希望をもって「すべての他者の同意を求める」ことしかできない」。この希求こそ、政治に特有の合理的説得の一形態である。[…中略…]「カントは、判断力は「すべての判断する人格に」妥当する、と述べている。だが、ここでの強調は、「判断する」というところにある。つまり、判断力は、判断しない者、あるいは判断の対象が出現する公共的領域の成員ではない者には妥当しないのである」。

このアレント論の中でも指摘されているが、アレントの判断力論は必ずしもカントに忠実な訳ではなく、ありえた可能なカントの政治哲学を想像している傾向が強い。私が「これは美しい」と判断したときに(それが共通感覚に則ったものならば)それを他の人も同じように判断するはずである*3。しかしカントは判断力を生得的な能力であるかのように扱っているのであるが、それはアレントの構想する政治哲学とは合致しない。判断力が政治的であるためには、判断は学習可能なものでないといけない。でなければ、同じ判断をする者は始めから生まれつき決まっているので、(他者への説得が不可能な事から)政治的な解決には結び付かなくなってしまう。アレントはその早い死によって判断力についての詳しい論考を書けなくなってしまったので、アレント自身が判断力についてどう考えていたのかはあまり詳しくは分からない。しかし、ここで示唆されている判断(の規範性)が社会的に構築されるとする考え方はブランダムとも共通するものである。
クリプキウィトゲンシュタイン論を見ても分かるように、規則の現実への適用方法が前もって定まっていると考える事には問題がある(p.117上)。つまりカントの言う規定的判断がどのように生じるのかは謎でしかない。ヘーゲルはその溝(規定的判断と反省的判断の溝)を埋めるがために一元論を展開する事になる。

規定的な概念内容は、その内容を規定すること、すなわちそれを規定する過程を離れては理解できない。概念は固定されてもいないし静的なものでもない。概念の内容は、概念が経験の中で適用されたり適用されなかったりといった、個々のケースによって変化させられる。(p.118)

概念の確立と適用(または反省的判断と規定的判断)とを分ける事はできない。概念は適用と変化を同時にし続ける発展過程に常にあるのだ。
ここまでで分かったのは観念論者テーゼの前半部分(概念の構造と統一性)の「プラグマティスト・テーゼ」との関係まででしかない。ブランダムの論文はまだ続くのだが、今回はここまでとする(続く??かは未定)。

*1:「思想」No.948のこと。http://www.iwanami.co.jp/shiso/0948/shiso.htmlを参照

*2:(似た考えを持っているのに煮えきらないマクダウェルとは異なり)ブランダムのその清々しいまでの観念論者振りにも感激した

*3:同じく判断力でも赤や丸のような普遍概念と真や美のような超越概念を同等に扱ってよいのかは、残念ながら私にはよく分からない