ジョン・ロールズ「ロールズ哲学史講義」上/下

ロールズ 哲学史講義 上

一定の哲学史の知識や読解力がないと難しいが、その高いハードルを越える価値はある名講義

著名な政治哲学者ジョン・ロールズが1970年代から行なっていた道徳哲学に関する講義の、1991年の最終原稿を元にして編集された講義録。有名になったサンデルの講義のような分かりやすい概論ではなく、オリジナリティーの高いカント解釈を中心とした本格的な講義。お世辞にも読みやすい内容ではないし、哲学史の知識を予め持っていないと理解は難しい。とはいえ、ロールズのカント的構成主義についてきちんと知る事のできる数少ない邦訳文献として貴重であり、その高い敷居を越えるだけの価値のある本物の哲学史の本である。
これはロールズがハーバート大学で行った道徳哲学史に関する講義録だが、注意すべき点が幾つかある。まず、有名になったサンデルの正義論の講義とは全く性質が異なることである。目次だけ見るとロールズの授業もサンデルのような概論に見える。しかし、この講義録はカントの倫理学に関するロールズ独特の解釈が中心となったものであり、それ以外の哲学者の講義はあくまでカント講義を補うものとして計画されている。また、サンデルのような親切な講義ではないので哲学の素養がない読者には分かりにくい内容であるが、これはサンデルの講義とは異なりオリジナリティーが高い講義ので仕方ない。
この講義は様々な哲学の知識をある程度は持っていないと理解が難しい。少なくとも定言命法を中心としたカント倫理学の基礎知識ぐらいは持っていないと読み進めるのはきつい。理性的/合理的のロールズ的な区別も知っていないと混乱するし、ネット上の書評で困惑されていた傾向性という用語なんて分析哲学の基礎用語なのでこの程度で戸惑うようじゃこの本の要にはとても到達できない。それでもカント以外の講義はまだ読みやすい方だが、肝心要のカント講義は哲学の知識なしでは理解はとても無理だが、でもそこが理解できないとこの本を読む意義はない。
上巻はまず前半でヒュームの自然信仰主義とライプニッツ形而上学的完全性主義が講義されている。ここは中心となるカント講義よりは読みやすいのでその前の準備としてまだ気楽に読み進められる。とはいえ、講義としてはしっかりしているので油断は禁物だ。上巻後半はカント講義に入るが、哲学史の知識をそれなりに持っていればロールズ独特のカント読解を早速味わう事ができる。ここでのカント読解は下巻のカント講義でより深められる事になる。

ロールズ 哲学史講義 下

読者に哲学の素養さえあればロールズの独特なカント解釈を味わう事ができる貴重な講義録

著名な政治哲学者ジョン・ロールズが行なった道徳哲学に関する講義の、1991年の最終原稿を元にして編集された講義録。オリジナリティーの高いカント解釈を中心とした本格的な講義なので、読みやすい内容とは言えない。しかし、一定の哲学史の知識がある読者ならロールズの独特なカント解釈を味わう事ができる貴重な日本語文献。
上巻のレビューでも書いた通り、(翻訳は良好とはいえ)この本はお世辞にも読みやすくない。この本は読みにくいのに、下巻の巻末にある解説がさっぱり役に立たない。解説には訳語への注意があるだけで、この講義に関する解説どころか学術書によくある表面的な要約さえない。ただでさえ敷居が高い本なのに解説がさっぱり当てにならないので、哲学についての知識と読解力のある人以外には勧めにくい本になってしまっている。それから、これはあくまで哲学史の講義なので、ロールズの解釈を知る事はできるがロールズ自身の見解を知る事ができる訳ではないことに注意。ロールズ自身がここにあるカントの説をどこまで支持しているかはこの講義録だけからははっきりとしない。
下巻は前半がカント講義の続きとなっていて、構成主義や理性の事実といったカント倫理学の核心について述べられている。ロールズについて知識があれば、ロールズが後期に至ってカントに対して構成主義は採用するが善論は捨て去ったと推測もできるが、そういう推測はこの講義録だけからではできない。最後のヘーゲルに関する講義ではヘーゲルもカントと同じくリベラリストだとされる。最終節ではヘーゲル的なリベラリズム批判が扱われているが、そこはコミュタリアンによるリベラリズム批判を思わせる所も見受けられてその点でも興味深い。
全体として見ると、最も興味深いのはやはりカント講義だが、と同時に最も難しいのもカント講義である。しかし、本物の哲学書が敷居が高いのは仕方のないことであり、そこに文句をいうのは見当違いである。道徳法則を数学と同じ特徴(アプリオリで総合的)を持つものとして見るロールズのカント解釈に感心できる程度でなければこの本は読むだけ無駄だ。この講義録には最高点の評価を与えられるが、安易に読むのをお勧めする気にはなれない。しかし、その高い敷居を越えればロールズの才能を味わうことができる隠れた名著である。

この本の解説のようなもの

上はアマゾン用のレビューの草稿だが、文字数や読者を考えてこの本を読む上の注意ばかりになってしまい、本の内容にはほとんど触れられなかった。どうせこの本はただでさえ読みにくいのだから、ここに少しだけ解説みたいなのを書いて見ようと思う。とはいえ、自分もこの本のすべてを理解できているとはとても言えない(それぐらい理解が難しい)ので、私が大事だと思った所を中心になんか書いてみようかな。
それでもこの本に書かれている面白い話題は多くて、ここには書き切れそうにない。懐疑論自然主義を両立させるための情念論を展開するヒュームの心理学的自然主義とか、道徳の神的理性説をとりながら決定論と自由意志の両立説をとるライプニッツとかも興味深いのだが、切りがないのでここはカントを中心に論じてみる。ただ一つ気づいたこととして、ロールズが哲学における神学的問題に詳しいことに感心してしまった。ヒュームの不可知論、ライプニッツの最善世界説、ライプニッツのように両立説をとることはせず神学を認識的観点(例えば自然神学)と実践的観点とに端的に分離してしまうカント、と神学的な話題がさりげなく含まれている。そういう視点からこの講義録を読むのもなかなか悪くない。

カント的構成主義について

ここではこの講義で最も興味深い話題であるカント的構成主義(又は道徳的構成主義とも政治的構成主義とも呼ばれる)だけでも触れたいのだが、その前に幾つか準備だけしておきたい。まず、ロールズはよく合理的と理性的という言葉に言及しているが、この二つは意味が全く違うのだが、この講義録では特別には説明していない。ロールズが合理的という場合は経済学での合理的経済人と言われる合理的に意味が近く、自らの欲望と信念に則って判断すると言う意味で合理的であると言われる。それに対して、理性的とはそうした個人的な欲望や信念とは独立な論理的に考えられるような能力である。ここで注意すべきは理性的とは文字通り論理的に考えているという含意では必ずしもないが、人は単に合理的なだけではない理性を持っているとされ、そのような人は人格を持っているとされる。次は純粋実践理性と経験的実践理性の違いだが、経験的実践理性は「もし〜ならば…せよ」といった仮言命法に基づく能力であり、対して純粋実践理性は単に「〜せよ」という条件なしの定言命法に基づく能力であり、純粋実践理性こそが道徳に相応しいとされる。最後に善と正義と徳の違いだが、幸福を目指す善と公平を目指す正義と卓越性を目指す徳という違いになるが、この講義録では徳はほとんど問題にならない。善と正義の違いは重要だが、日本語に訳すと意味合いが強くて誤解されやすく、原語に近いニュアンスは善は「良さ」で正義は「正しさ」程度になるが、面倒なので従来通りの訳語を用いる。
カント倫理学定言命法で有名だが、これは何だか分からないけど絶対に守らねばならない義務「〜すべし」があるとする説だと受けとられがちだ。しかし、ロールズによるとそれはカントによって否定されている考え方だ。ライプニッツは神的理性の中に道徳があって、人はその道徳を直観によって知る事ができるとしたが。カントはそうした合理的直観説を否定した。かといって逆に、ヒュームのように道徳を単なる共感から生じるものだともしなかった。カントは単なる情念論も超越的な理性主義をも退けて、人の理性の中に道徳法則を位置づけようとした。それがロールズの言うカント的構成主義である。つまり、カントは道徳法則は人の理性のなかで構成されるものだとした。道徳法則を構成する上で合理的で理性的な人を人格として同等に扱うことになる。例えば「約束を守るべき」という道徳を問題にする。もし約束を守らない人がいたら社会が無意味に混乱し、その場合に都合が悪いのはその社会の中にいる自分である。だから人格を持った人同士では約束を守ると導かれるはずの社会の秩序を求めて、合理的で理性的な人々は常に約束を守ることになる。つまり、具体的な定言命法的な格率「〜すべし」はそうした理性的に構成された判断によって導かれる。これがカント的構成主義の基本だ。
ここで前期ロールズと後期ロールズの違いに目を向けよう。「正義論」で前期ロールズは合理的選択説に則って正義の二原理を考え出した。後期のロールズは合理的選択説から撤退したことで様々な評価がなされてきた。ここで注目すべきは、後期ロールズの入り口でカント的構成主義が考え出され、それは「政治的リベラリズム」の政治的構成主義にまで及んでいる事だ。カントはロールズに対して生涯をかけて一貫して影響しつづけたのだが、その位置づけは見誤れやすい。カントには善の理論もあって、それは「正義論」の第三部に影響が見られる。つまり正義の人である事は善の人(幸福)でもあるとする考え方だ。これは特に後期ロールズを支持する人には評判が悪いのだが、その偏見のせいで後期ロールズへのカントの影響力が見逃されがちでもある。この講義録でもカント倫理学における正義の理論と善の理論が共に扱われていて、究極的にはそれらは一致するはずだとされる。しかしこれはカントの見解であってロールズ自身の見解ではない。講義録全体で見ても、正義の理論と善の理論は分けられるのが基本であり、ロールズの強調点はあくまで正義の理論にあるのであって、善の理論に対しては割かれてるページも抑えられてる。道徳的構成主義はまさに正義の理論(公平さ)に関わる。
カント的構成主義(道徳的構成主義)を考慮に入れると、ローティが後期ロールズを支持した理由も分かってくる。つまりカント的構成主義の特色は、整合的でありさえすればどんな道徳法則でも構わないということであり、これはローティが好意的だったディヴィソドンの言語哲学説が整合主義的な特徴と類似している。ただローティの場合はカント的構成主義にあるすべての人を人格的に平等に扱う考え方が共感によって人格性の対象を押し広げようとするある種の相対主義になるのだが、それはここでは脇に置こう。大事なのはカント構成主義では整合性さえあればどんな道徳法則も可能であるという軽い相対主義である。だがここで言う相対主義構築主義のような何でもありではない。ここで注目すべきはカントが道徳法則を数学と同じくアプリオリで総合的であるとしており、その結果としてどちらも構成主義的であるとされる。(カント自身は知りえない例だが)分かり易い例としてはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学がある。つまりどちらの幾何学も内部で整合性がとれている限りで正しい幾何学理論とされる。道徳法則でも同じように、互いに約束を守るとか互いに相手を傷つけないとかの任意の道徳法則から任意の社会秩序が導かれるのだが、どのような社会秩序を望むかで受け入れられる道徳法則は変わりうる。ローティはカント的構成主義相対主義的な側面(渡辺幹夫が「リチャード・ローティ=ポストモダンの魔術師 (講談社学術文庫)」第二章で言うメタ道徳幾何学)に気づいたに違いない。
こう考えてくると、後期ロールズは「正義論」での合理的選択論による議論を捨て去ったというよりも、合理的選択論を様々に可能な構成主義的な議論の一つとして相対化されたと考える方が妥当なように思えてくる。だいたい前期からあった反照的均衡の考え方から分かるように、正義(としての道徳)の議論を学者の中だけに止めるにはロールズの本意ではなく、市井の人々が参加するより政治的な議論にしたかったはずだったのだから、合理的選択論に拘るのではなくより社会の中の多くの人々へと政治的想像力を広げようと促す方向に向かったのは非難されるべきではないと感じる。

ロールズ 哲学史講義 上

ロールズ 哲学史講義 上

ロールズ  哲学史講義 下

ロールズ 哲学史講義 下