パワーズ「エコーメイカー」(元はアマゾン用の)書評

エコー・メイカー」星4つ

脳損傷による精神障害を題材にした地味ながらも優れた大作

この小説が傑作なのは全米図書賞を採ったことなどからも分かるので、それについてはもう詳しく述べない。脳障害が題材になってはいるが、この作品に出てくる様々な脳障害の症例の紹介は間違ってはいないだろうけれど、どっかの一般向け科学書からの切り貼りみたいで面白くない。やはりこれは文学として楽しむ作品であり、モダニズムな文学が好きな人には特にお勧めしたい。
訳者あとがきを読むと脳の局在論と全体論が問題になっているかのように書かれているが、実際に読んでみるとそうではないと分かる。この小説で神経心理学ウェーバーが悩んでいるのは(主流の)神経科学と(昔学んだ)精神分析との対立であり、ひいては科学と文学の対立が問題になっているのだ。ウェーバーは著作で脳障害の症例の紹介をしているのだが、それが近年の神経科学の発展に脅かされているように感じている。ウェーバーがその著作で描いているのは患者の症例を描く個性記述であり、これは一般化された科学的描写に対比させられているのだが、最近のウェーバーの著作ではそうした文学的描写さえマンネリ化してると批判されている。ウェーバーはカプグラ症候群になったマークとその姉との関係によって、そうした科学と文学(神経科学と精神分析)の対立をどう調停していくかが問題になってくる。
神経科学と精神分析の対立は登場人物ウェーバーだけに関わる問題でもない。作者のパワーズモダニズム的な文学手法を好んでおり、特にこの小説の第一部では脳に障害を負ったマークからの描写もあり、その意識の流れ的な手法はフォークナーやヴァージニア・ウルフを思わせる。そうしたモダニズム的な文学手法は精神分析の影響を受けたものでもある(作者パワーズ精神分析批評の影響も受けている)。そこで精神分析が文学に与えた影響に相当する文学への神経科学の影響とは何かを考えてしまう。作品中で(デネットの名こそ出ないが)多重草稿モデルを思わせる記述があり、自分はそこに文学への示唆を感じた。この作品でも交代で表れる登場人物ごとの世界の見方の違いから、多重草稿モデルからの示唆を感じなくもない。とはいえ、そうした文学的手法は後半に至るほどに弱くなっていき、そのせいで小説の後半は普通小説のように読みやすくなるが、それが長所なのか欠点なのか私には決めかねる。事故を中心にした謎も最後にはほぼすべて解消されるが、小説としてはそれでも良いかもしれないが、多重草稿モデルを目指した文学として見ると物足りなくも感じる。
正直、本体に当たる姉弟(カリンとマーク)の話と脇道の神経心理学者(ウェーバー)の話は少し分離しているようにも感じる。最後まで読めば一応共にある重要人物との係わりが多少あったと分かるのだが、基本的にウェーバー姉弟の話に時々介入するだけで、物語全体で見ればウェーバーの話は浮いてる気がする。それでもウェーバーをカリンやマークと同等に描く意義があったのだとしたら、上で指摘したような作品全体との構造的対応(多重草稿モデル的な文学)でも考えるしかない。ただし、それが成功しているかは疑問だが…
この小説は大作だが、自分は短期間で読み終えてしまった。自分がモダニズム的な文学が好きなせいもあるが、ここまで読み応えのある作品を書ける作者の力量には感心せざるを得ない。近年出版された文学作品としては明らかに傑作に値する。じっくりと文学作品を味わい人には是非読んでもらいたい小説だ。

エコー・メイカー

エコー・メイカー