バーリン「自由論」

自由論(新装版)(ただし引用は旧版から)

今となっては「二つの自由概念」しか読むに耐えないが、それでさえ価値的には資料に近い

消極的自由と積極的自由の二分法で有名になった「二つの自由概念」を含んだ政治思想家バーリンのエッセイ集。古典と化した「二つの自由概念」以外のエッセイは古びてしまって今となっては読む価値はあまりない。「二つの自由概念」でさえ自由の二分法を提出した以上の価値があるかは怪しい。個人的には「二つの自由概念」への批判に答えた序論の後半部の方が面白かった。
このエッセイ集には四つのエッセイに付録のエッセイ一つが収録されているが、有名な「二つの自由概念」とそれへの批判に答えた序論後半の他は、今となっては読む価値は大してない。第一エッセイ「二十世紀の政治思想」は当時の政治状況に言及した時事的エッセイなので今読んでも面白くない。第二エッセイ「歴史の必然性」は歴史の法則性を議論したものだが、決定論と自由意志に関する議論が洗練した現在では読んでも得られるものは少ない。第四エッセイ「ジョン・スチュアート・ミルと生の目的」も特別に興味深いミル論とは思えない。書かれた当時以降に政治理論がすっかり発展した現在に付録「政治理論はまだ存在するか」に価値がなくなったのは言うまでもない。しかし、どのエッセイのテーマも─共産主義も歴史の決定論もミル「自由論」も─今では古典となった「二つの自由概念」と結びついているのだからこれだけ読めば十分だ。
とはいえ、その「二つの自由概念」も有名になった自由の二分法の原典エッセイとしての価値であって、(古い政治思想書にはありがちだが)今でも読んでどこまで面白く読めるかは怪しい。その自由の二分法とは消極的自由と積極的自由のことであるが、引用によって説明すると、消極的自由は「主体ー個人あるいは個人の集団─が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」(自由論〈2〉 (1971年) p.303)に、積極的自由は「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」(自由論〈2〉 (1971年) p.304)に関わっている。要するに自由への障害を問題にするか自由の行使を問題にするかの違いだが、この二分法そのものは今でも便利で、例えばサンデルのロールズ批判に対する反駁に使えたりもする。もちろん(これが公表されたのと同時代のポパーハイエクと同じく自由を擁護しようとする)バーリンの支持するのは消極的自由である(政治的参加を推奨する共和主義を擁護する同時代のアレントハーバーマスとも比較せよ)。

かれらがその実現につとめている「消極的」自由は、訓練のよく行き届いた大きな権威主義的構造のうちに、階級・民衆・全人類による「積極的」な自己支配の理想を追求しているひとびとの目標よりも、わたくしにはより真実で、より人間味のある理想であるように思われる。より真実であるというのは、それが、人間の目標は多数であり、そのすべてが同一単位で測りうるものでなく、相互にたえず競いあっているという事実を認めているからである。したがってただ最高の価値を決定するための検査が問題なのだと想定することは、自由な行為者としての人間に関するわれわれの知識を誤謬に導き、道徳的な決断を、原理的には計算尺でできるような運算と考えることである。

このエッセイ集の価値は「二つの自由概念」に集約されているのだが、それに劣らず(むしろそれ以上に)読む価値があるのは、「二つの自由概念」への批判に答えた序論の後半(自由論〈1〉 (1971年) p.55-)である。「二つの自由概念」の元講演がなされたのが1958年だが、このエッセイ集が出版されたのは約十年後の1969年であるが、その十年の差が序論に反映されているのが興味深い。(消極的)自由を擁護するのが目的だった元のエッセイに対して、序論後半では社会ダーウィズム的な自由放任主義(レッセ・フェール)に対して自由と平等のバランスが問題にされている。だがそれこそはその数年後に公表されるロールズ「正義論」の主題そのものである。その約十年の間で政治思想的な焦点が自由そのものから自由と平等との関係へと移行したのだ*1。政治思想というのはいかに普遍的な語られ方をしてても、その時の時代的な社会状況が反映されている。しかしそれらには、単に感情に駆られた単なる時事的な見解ではなく、時代状況から動機を得たからこその深い一般性を持っているものもある。

自由論

自由論

*1:少なくとも単に自由を擁護すれば済む訳ではないことは、「正義論」と同じく1970年代に出版されたノージックやオークショットの著作に社会に関する構想が含まれていることからも分かる。ちなみに、さらにその後、後期ロールズは社会に関する構想に対して中立的なメタ構想を提出するが、それは公共哲学で騒ぐ共同体主義とは対照的である。消極的自由と積極的自由の対は案外と古びない