ダニ・ロドニック「グローバリゼーション・パラドクス」

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーションの歴史を探って未来の国際経済のあり方を提示する興味深い著作

国際経済学者が過去の国際経済の歴史を分析する事で未来の世界経済のあり方を考えていく経済書。グローバリゼーション批判で有名になった著者だが、この著作ではそうした偏りに陥る事なく経済史の分析を見事に行っている。最初から三分の二はグローバリゼーションの経済史を分析することで、世界経済においては全面自由化でも保護主義でもない中間的なあり方が必要だと主張される。残りの三分の一では著者の提示する政治的トリレンマに則って将来の世界経済のあり方が考察され、各国の事情に応じて条件を定めていく多国間体制(ブレトンウッズの妥協)が著者の立場として提示される。とても素晴らしい経済書であるが、前半の経済史分析は客観性が保たれているので素直に読めるが、後半の政治的トリレンマの分析はより著者の立場が反映されているぶん批判的に読む必要がある。
この本が世評通りの素晴らしい出来の経済書であることには異存はないし、内容については既にネットでいろいろ紹介されているし訳者あとがきの要約もよくできているので、そちらを読んでもらえばよいはずなのでこれ以上は言及しません。私はむしろこの本の評価のされ方に違和感を感じたのでそちらについてだけ触れておきます。
この本の世間的な評価では著者の提示する政治的トリレンマにばかりに言及されているが、私の印象では政治的トリレンマというのはこの著作の後半の議論を読む上で参照するに相応しい枠組みだとは必ずしも言いきれない。その理由はこの政治的トリレンマというのが対称的な三項関係にはないように感じるからだ。
政治的トリレンマの三項とはハイパーグローバリゼーションと国民国家と民主主義であり、任意の二項が結び付くことで特定の世界経済の枠組みが三つ導かれる事になっている。しかし読み進める内にその導かれる枠組みのうちの一つは現実的でないとして否定されることになるが、これだけでもその枠組みは考慮に入れなくてもよい気がしてくる。その枠組みとはハイパーグローバリゼーションと民主主義を結び付けることで生まれるとされるグローバル・ガバナンス(国際的な統制)だ。そのグローバル・ガバナンスとは国家を越えた民主主義によって統治される体制のことだが、それが理想が過ぎる非現実的なものとして否定される。この辺りを読んでいて疑問に感じることは二つある。まず、同じ民主主義でも他のどの項と結び付くかで意味合いが余りに違いすぎる…つまり、国家と結び付いた現実にある民主主義と国家を越えた理想的な民主主義とを同じ民主主義の項でまとめること自体に無理を感じる。それから、どうもこの著作ではグローバル・ガバナンスという言葉を、国家を越えた民主主義としての理想的な体制と、国家を否定しない緩やかな意味でのグローバル・ガバナンスとの二重の意味で使っていることだ。だったら、国家を越えた理想的な民主主義は高度な政治理論上の問題としてここでは考慮にいれない方が議論の枠組みはすっきりする。つまり、可能な枠組みとしては国際経済の全面自由化(黄金の拘束服)と各国の事情を考慮する多国間体制(ブレトンウッズの妥協)の二つだけを考慮すればよく、国家を否定しないグローバル・ガバナンスはそのどちらとも両立しうるのではないのか?
可能な枠組みをこの二つに絞ってしまうと、前者の国際経済の全面的自由化は前半での経済史の分析で極端な立場として否定されているので、ありうる立場としては各国の事情を考慮する多国間体制しか残らない。実際にそれが著者の支持する立場であるが、だったら著者の提示していた政治的トリレンマというのは著者の立場を導くための便利な考え方でしかないようにも見えてしまう。前半で全面的自由化でも保護主義でもない中間的な立場を主張していた著者が、後半では都合のいい別の対立─全面的自由化か多国間主義か─に陥っているのではないか。実は政治的トリレンマという考え方は国際経済に関する議論を一定の方向から見るように促すことで、別の問題から目をそらさせる原因になっているのではないかと勘ぐってしまう。
この著作を読んでいると、著者が民主主義と言っている時は熟議民主主義が念頭にある事に気づく。実際に熟議だの討論だのといった熟議民主主義の関わる概念があっちこっちに出てくる(ちなみに本書で参照されているジョシュア・コーエンは熟議民主主義の代表的な研究者)。実はグローバル・ガバナンスとして専門家などのエリートを集めた集団で決定する官僚的体制の可能性もさりげなく示唆されているが、それは民主的な正統性がないとして却下されている。官僚的グローバル・ガバナンスでは採用した決定に対する説明責任がないとして批判されているが、この説明責任への言及も熟議民主主義に伴う公共的理性の考え方を反映している。全般的に国際経済の枠組みは熟議的な民主主義(国家の事情を反映できる民主主義)によって解決できると期待しているようだ。しかし、なぜ民主主義が国際経済の問題を解決できる要だと確信できるのだろう。それはあくまで熟議がうまくいくことを前提としているが、熟議民主主義はその強い理性主義も含めて様々な批判もある。グローバリゼーション支持者が懸念しているのは、(取引コストの問題を別にしても)熟議を含めた民主主義によって国家の事情を反映した適切な国際経済への対応ができること自体を疑っているのではないのか。国内の既存の団体や業界の利害が反映されればそれが保護主義にしかなり得ないが、そうした利害関係のある国内の既存の団体や業界こそが政治的に力を持ちやすいのではないのか。つまり著者が本当に直面しないといけない問題は民主主義が適切に機能するためにはどうすればよいのか?ではないのか。しかし経済学者である著者にはそれ(政治)は管轄外の問題であるとも言える。
政治的トリレンマによって提示される枠組み─全面自由化、グローバル・ガバナンス、多国間体制─というのは、全面自由化と保護主義を両端とするスケールに位置づけられるものではないのか。それとは別にそうした枠組みを民主(政治)的に決めるのか?エリート(官僚)が決めるのか?という選択肢があるのではないか。(前半の分析からはありそうにもないが)民主的に(国家間交渉を介して)国際経済の全面的自由化が決まるという事態も可能性としては考えられるのではないか。そう考えるとやはり政治的トリレンマという考え方はたいして必要なものではなく、多国間体制という著者の立場を導くためでしかないことになる。だとしたらここから先は(民主的)政治の問題であり、経済学者自身が人々への説明責任を持った一アクターでしかないのだ。
この著作は政治的トリレンマを扱った後半ばかりが話題にされやすいが、これまで論じた理由から後半部を素直に評価する事はできない。むしろ、グローバリゼーションの経済史を分析することでグローバリゼーションは是か否かといった単純な対立は間違っているとする前半部分の方が価値があると思う。(これも本文に触れられている話だが)そうしたグローバリゼーションに対する単純な二分法的な評価が間違っていることは(口には出さずとも)経済学者にとっては当たり前の話で話題にするに値しないのかもしれないが、一般読者にとってはそれが大事な議論である事に変わりはない。私はこの本が後半の政治的トリレンマばかり注目されるのはもったいないと思う。この本から得られる大きな教訓の一つはグローバリゼーションは善か悪かといったイデオロギ─的に固執した話は下らない(だから個別に具体的な議論をするしかない)ことではないのか?

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道

グローバリゼーション・パラドクス: 世界経済の未来を決める三つの道