浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」の(アマゾンには載せにくい)レビュー

スピノザ共同性のポリティクス

スピノザルネサンス以後のスピノザ論として悪くないが、それ以上の期待はしない方が妥当

二十世紀後半にフランスでスピノザを新たに読み直すスピノザルネサンスが起こり、その影響を受けたスピノザ論としてはそれなりによく出来ているが、著者のスピノザ以外への哲学史的な知識が浅いせいで深い議論は期待できない。ドゥルーズ系譜の「エチカ」に関連した論文はよく出来ているが、それ以外には疑問に感じるところが目に付く。そのせいで、タイトルから期待される政治思想論は甘い論文になってしまっている。
スピノザルネサンスにはドゥルーズに代表される系譜とアルチュセールに代表される系譜があると説明されてはいるが、(アルチュセールの系譜にあまり進展がないせいもあれど)著者はアルチュセールの系譜には興味も理解も大してあるように思えない。ドゥルーズの系譜のスピノザ研究は「エチカ」が読解の中心になっているが、アルチュセール自身は「神学政治論」に強い興味を持っていたのだから、このことはこの著作がスピノザの政治思想が中心テーマの一つになっているだけに頭の痛い事でもある。だったら(半端なマルクスへの言及と共に)中途半端にアルチュセールの系譜に言及するよりむしろ、他の日本のドゥルーズ系譜のスピノザ学者のように、アルチュセールスピノザ論には納得がいかないと言い放ってしまう方がよほどすっきりする。私のようなアルチュセール好きからしても、アルチュセールスピノザの影響を受けたかもしれないがスピノザそのものを理解することにはそれほど興味がないように感じる。こうした曖昧な態度がこの著作でのスピノザの政治思想論を鈍いものにしているように思われる(例えば自然権論がおまけの言及にしか見えないへーゲル批判を含む第四章を参照。アルチュセールではヘーゲルスピノザの対比がヘーゲルマルクスの対比に反映されている。イデオロギー装置(=生権力)論は「神学政治論」の影響を受けているが、これが分かっていれば、後で触れる政治と政治的なものの違いも分かっていたはずだ)。
著者は社会契約説をスピノザが否定していると主張している(p.189)のだが、社会契約がフィクションであるという基本が理解されておず、文字通りの契約はないとの(低級の)批判によってネグリ辺りを真に受けてスピノザは(ホッブス的な)社会契約を破棄したとしているが、そりゃないだろうと思う。第七章の注16で一応、スピノザ社会契約破棄説以外への目配せもしているが、そもそもの批判が低級なので社会契約破棄説そのものに説得力がない。それに、著者は主にドゥルーズ系譜のスピノザ解釈に依拠している節があるが、ドゥルーズスピノザ論である「スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))」では第四章の社会の項で「なぜスピノザにおいては社会状態が契約にもとづくものとされるかが理解される」とあるように、明らかにドゥルーズ自身は社会契約破棄説を支持していない。私個人の見解では、自然状態から社会状態への移行には飛躍があるので、ホッブスはそこを社会契約というフィクションを道具として使って強引に飛び越そうとしたのに対して、スピノザは自然状態と社会状態との間の溝をもっと緩やかに埋めてつなげようとしたのであって、フィクションにすぎない社会契約に対して強い否定をしたと無理に考える必要はないと思う。
その他にもホッブスロールズの自然状態へのアトミズム批判とかも、(サンデルのロールズ批判と同じで)社会契約論の全体がフィクションであるという基本が理解されていないだけの話でしかないし、自然状態へのアトミズム批判に拘るならむしろ(その点で似た意見を持った)ロック辺りに言及した方がいいんじゃないかとも思った。また、自然権についても、意見が違うんじゃなくてそもそもの定義が違うだけじゃないかという疑惑を脇に置くとしても、ホッブスに対する自然権を放棄する最初の一人はありえないという批判には、二十世紀前半に起こったホッブス・リヴァイバルを代表するオークショットのホッブス論を読んだ方がいいんじゃない?と余計なことまで思ってしまった(さすがにここまでは求めすぎだろうが)。全般的に著者の社会契約に関する議論はあまり参考にならない。
以上までの指摘のように、この著作は(道徳とは区別される)倫理思想論としては悪くないのに、スピノザ以外の哲学史への無理解のせいで政治思想論としてはいまいちなのだが、それが悪い形で結実しているのが著者によるスピノザは政治と倫理を分離した説(第七章)である。哲学史上で見ても政治と倫理がくっついているのは確かで、著者が言及するアリストテレスは政治的な卓越主義者(サンデル的な共和主義者)なのだからそれも当然だ。しかし、政治と倫理を分離した哲学者として私が真っ先に思い浮かべるのは(ローティが指摘するように)政治から人格改造としての倫理を切り離した後期ロールズである。だがスピノザの中に後期ロールズに当たる何かを見つけられるかというとどうも怪しい。著者が根拠として挙げる社会契約破棄説は既に指摘したように当てにならないので採用できない。しかも後期ロールズと違ってスピノザは倫理そのものを捨て去った訳ではない(何のための「エチカ」?)。
ここで注意すべきは著者が政治そのものと政治的なものを区別していないことである。著者はスピノザのミクロ・ポリティクスを指して政治論だと思っている所があるが、どう考えてもそこには勘違いがある。スピノザのミクロ・ポリティクスとはフランス現在思想におけるイデオロギー装置や生権力に価するが、これは私たちの生活がいかに政治的なものであるかという話であって、政治そのものの話ではない。つまり、そもそもスピノザは政治そのものの話をほとんどしていないも同然だから、スピノザにおける政治と倫理の分離を語ること自体に無理があるように思う。だからそこから政治と倫理を分離してるか?という問いに答えを導くことは困難だ。著者自身も別の章では『<群集=多数性>はおよそ「政治的なもの」が現出する際に、常にその生成の基体をなすという意味で普遍的だからである』(p.219)とそのマルチチュード論でそのこと(政治そのものと政治的なものとの違い)に気づいている節があるだけに頭を抱える。私にはスピノザの共通概念が何なのかが未だによく分からないのだが、それを抜きにしてもこれだけの欠陥が指摘できてしまう点で、この著作は(タイトルから期待されるような)スピノザの政治思想論としては全く成功していない。
始めにも指摘したように、スピノザの倫理に関する論文としてはなかなか悪くないが、他にも、ディープ・エコロジーとしてのスピノザとかネグリ&ハートのマルチチュード論とかの論文が、正直なところ話題そのものが時代から遅れて古びた感がしなくもないが、議論そのものに問題がある訳ではないので興味があればそれなりに面白く読める。

スピノザ共同性のポリティクス

スピノザ共同性のポリティクス