去年の雑な振り返りと、書きそうな記事の予告

去年の認知科学関連、私的な概振り返り

最近の認知科学関連については、特に二十一世紀に入ってから次々と続いていた関連したブーム1がだいたい落ち着いてきた2。認知科科学にブームとして残っているのは、もう(自由エネルギー原理を含んだ)予測処理理論ぐらいかもしれない。

去年の認知科学関連で、私から見て最も目立ったのは、統一理論としての予測処理理論への本格的な批判が始まったことかな?このブログで紹介した論文「統一による専制」はその代表だが、他にも草稿やレターにも面白いものがあった。この動きは今年もまだしばらく続いて、その中で予測処理理論の学問的な評価や位置づけがだんだん定まっていくと思う。

科学というのはこうした過程が面白いと思うから、こういう議論はできるだけ紹介したい。世間的な、科学は成果しか見ないという傾向は良くないと感じる。実際に今回の新型コロナ騒ぎでは「科学は成果しか見ない」傾向が悪い影響を与えているように見える。科学は過程こそが大事はこのブログで伝えたいことだ。

心理学研究の再現性への私的見解

心理学研究の再現性問題(同じ実験をしても同じ結果が出ない問題)は、日本でも学者が本格的に動いてるので、私のような門外漢はあまり口は出さないつもりだ。ただ外から見てると幾つか懸念もある。

例えば、実験の手法やデータを全て形式化して公開しようという提案がある。確かにそうすれば、同じ実験の再現や同じデータの分析はしやすくなる。しかし、これを実現する上での一番の懸念は、研究を形式化する事務仕事ばかりが増えてしまうことだ。

(学者同士で)コミュニケーションをすれば済む話を、形式的に事務化するのはブルジットジョブ(クソ仕事 ; グレーバー)を増やす原因にしかならない可能性が高い。私は形式化を目的にするよりも、必要な情報を得られるやり取りをしやすくする仕組みを整える方が、研究者の為になると考える。事務化(官僚化)は一度進むと直しづらいので、安易な形式化は採用しないでほしい(どうせ全ての形式化なんて不可能)。

(特に社会)心理学におけるオリジナリティへのこだわりが、再現性へのこだわりに入れ替わるだけ、みたいな不毛な事態には絶対になってほしくない。言いたかないが、再現可能な成果が心理学の研究範囲内にそんなに多いとは思えない。むしろ統計や数理モデルをもっと取り入れる方が良いと思うが、こっちにも罠がありそう。それを考えるのはこれからの課題。

最近思いついた記事のアイデアだけ書く

最近は本屋に行くと、哲学の入門書をよく見かけたりする。それらはだいたい哲学者の名前を並べた哲学史みたいな本ばかりと感じる。特定のテーマを直接議論するタイプの哲学の本が日本では少ないことには懸念を感じる。日本では哲学は単なる思想としてばかり扱われていて、論証としてはあまり扱われていない3。ここから、泥沼に入らない程度に「哲学とは何か?」を雑に論じたい。

この前ラジオを聞いてたら、最近は共通前提としてのエビデンスが崩されてる…みたいな話がされてて???となった。エビデンスに注目が集まったのは比較的最近の話で、共通前提と言えるほどの歴史はまだない。たぶん論理実証主義あたりとごっちゃになってるのかもしれないが、はっきり言ってかなり違う。最近はエビデンスという言葉が安易に使われている。そこでエビデンス重視の歴史や背景を雑に書きたい[^3]。


  1. 世間的に目立ったものだと、進化心理学、脳イメージング、道徳心理学、人工知能とかかな。学問的なブームも入れると、大小含めてもっといろいろあると思うが、私もその全てを追えてた訳ではない。

  2. そういえば、日本でも最近になって潜在的偏見の研究が本格的に紹介され始めたが、これはアメリカではもっと早くから一般向けに紹介されて注目されていた。このブログでもかなり前に関連の一般向けの翻訳書を紹介した覚えがある。これはBLM(ブラックライブズマター)が元は去年に始まった運動ではない(もっと早い)のと関係がある。

  3. ここまで書いてて思ったけど、エビデンスの話というとは、結局は科学観の変化の話に帰着する。昔はマルクス主義が科学的か?が大真面目に論じられていたが、今やそんな議論に価値はない。人文学者には今でも精神分析を信じている人も多いが、マトモな科学者は精神分析が科学的に擁護できるとはとっくに思っていない(一部は反証済みで多くはそもそも反駁不可)。私にとっては、精神分析はあくまで思想史の対象であって、もはや科学の範囲にはない。そういえば、just-so story(もっともらしいだけのなぜなぜ物語)という点では、精神分析に取って代わるように出てきた進化心理学は同じ穴の狢だ。根拠なくてもいいからもっとらしい話を欲する欲望が人には備わってるのだろうか?