なぜかネットで手に入る英語による認知科学の教科書を見る(リンク切れに注意)

お世辞にも日本の認知科学を巡る状況は褒められた状況ではない。書籍に関しても、私がこのブログを書き始めた十年ちょっと前に比べればかなりマシになったとはいえ、全体的に見れば楽観視はできない。それでも一般向け読み物としての入門書はいくつかあって、古典的な入門書であるピンカー「心の仕組み」も手に入れやすくなっているし、最近だと去年出たスローマンら「知ってるつもり」が実は認知科学読み物だっりする。

しかし、これらは一般向けの入門書なので認知科学の基礎や全体像が勉強できるわけではない。そこで、最近の認知科学の教科書がどんなものなのか?をネットで調べてみると、なぜか普通に幾つかの新しい書籍のPDFを手にれることができることが分かった。そこでそれらを紹介してみたい。

認知科学を分野別に紹介した約十年前の本

Jay Friedenberg&Gordon Silverman"SCIENCE COGNITIVE An Introduction to the Study of Mind"

まずは手始めに十年少し前に出版された認知科学の教科書を見てみよう。これは認知科学の諸分野をアプローチ別に紹介している本だ。哲学・心理学・言語学神経科学・人工知能と…認知科学の主要な分野が紹介されており、内容は充実している。ただ、私の印象では哲学の章は物足りなく、人工知能は複数の章に渡っていて教科書としては詳しすぎる感じがする。認知科学の教科書としては 広い範囲を網羅していているが、逆に言えば紹介の寄せ集め感もしなくもない。実はこの本はすでに第二版が出ていて、それは全体が全く別の内容に書き換えられていて、第二版というよりも全く別の書籍になっている。確かに様々な研究が進んだ現在に分野別のこの書き方を続けるのは厳しいだろう。それでは最近の教科書はどうなっているのだろうか?

認知科学の研究テーマ別に分けて書かれた妥当な本

"The Cambridge Handbook of Cognitive Science"

これがネットで普通に手に入るのには正直驚いた(違法?)。これは2012年に出た認知科学のハンドブックである。内容は知覚や言語や推論などの主要な研究テーマ別に紹介されているもので、著者も著名な人が多くて豪華だ。研究テーマ別に分けて紹介するのは認知科学関連の教科書としては常套手段で、認知心理学認知神経科学の教科書でもそのような構成がよくされているし、海外の認知科学講義のシラバスでもこうした構成は見たことがある。それにこのハンドブックは認知神経科学進化心理学や身体化にも章が割かれており、新しい展開にも考慮されている。

全般的に条件が整っているにも関わらず、私にはこのハイドブックはどことなく不満を感じる。その最大の理由はハンドブックにしても分量が物足りないせいだろう。その理由のせいもあってか章によっては偏りも感じる。また、比較的最近になって注目されているはずの社会的認知についての章がないのも不満の原因だろう。研究テーマ別なのは認知科学の教科書としては穏当なのだろうけど、二十一世紀に入ってからの研究テーマの増大を考えると、なかなか網羅するのは困難だろう。

シンボル処理・コネクショニズム・身体化の三対による教科書

Michael R. W. Dawson"Mind, body, world: foundations of cognitive science"

これは2013年に出た哲学者による認知科学の基礎についての本だが、実質的に認知科学の教科書としての役割も果たせる。しかし何より、この本で示されているシンボル処理(古典的認知科学)・コネクショニズム・身体化という三対による認知科学の説明と言うのは実は今ではありふれたよくある説明方法だ。最初にこの三対による認知科学の説明を最初に示したのは1990年代始めに出たヴァレラら「身体化された心」という古典的著作だが、今でもこの三対による説明はよく見る。正直この本自体はそこまで大した本ではないが、この三対による認知科学の説明としては典型的なので紹介してみた。そこでもう一冊、このタイプの書籍を紹介しよう。

Francis Heylighen"Cognitive Systems a cybernetic perspective on the new science of the mind"

正確にはこれは書籍ではなく2015年頃の講義ノートなのだが、実質的に認知科学の教科書としても読める。この講義ノートの最初も内実は上の三対による説明に近い。その説明のあとは様々な研究の紹介になっていて、私の目からは構成が緩やかでちょっととりとめがない。

ただこの講義ノートには野心的な部分もあって、こうしたアプローチを統合するものとしてサイバネティクスによる心のモデルが提示されていることだ。ただ、このサイバネティクスによるモデルはフィードバックを軸に作られているが、最近の話題である予測符号化はそうしたフィードバック(誤差)だけのモデルに限界を見てフィードフォワード(予測)を付け加えたモデルを提出している。その点では、そうした視点を取り込んで新たに構成された講義ノートが必要なのでは…と個人的には夢想してしまう。

現時点でとりあえずの理想的な認知科学の教科書

José Luis Bermúdez"COGNITIVE SCIENCE An Introduction to the Science of the Mind Second Edition"

2014年に出版されたこの認知科学の教科書がなぜネットで普通に手に入るのかよく分からない(違法?)。事情はどうであれ、ネットで手に入る最近の認知科学の教科書としては、これはとりあえず理想的なものに近い。

特徴を挙げると、有名な文献を例にした認知科学の歴史についての説明に一章が割かれている、三対による認知科学の説明が独自の構成で詳しく解説されている、認知神経科学進化心理学などの新しい展開もかなり詳しい、具体的な研究の例としてmindreadingの説明に一章が割かれている、意識の問題など他にも多様な話題に触れられている…と教科書としてはその内容の豊富さには感心する。この豊富な内容を教えられる先生が日本にいるかは正直怪しいが、20年来の認知科学マニアの私でもとりあえず納得の内容の教科書だ。あえて気づいた欠点を言うと第二章の統合チャレンジの章が全体の構成から浮いている感がすることぐらいだろう。しかし、この本のその見事な構成を考えたらこれは小さな欠陥だろう。

認知科学の展開に付いていくために必要なのは?

理想的な認知科学の教科書を紹介したのだから、この記事はこれで終わりでもいいかもしれない。しかし、直前の説で「とりあえず」という言葉が入っているのに気づいただろうか。確かに、Bermúdezによる教科書は(20)00年代までの最新の認知科学の解説としては申し分がない。正直な所、日本にはこのレベルの内容を書ける人がいないどころか、このレベルの認知科学理解をしている人がどれくらいいるかも心もとない。

しかし、認知科学は(20)10年代に入ってからも大きな展開があって、教科書に反映されるべきものに限っても、予測符号化の流行や第三次人工知能ブームなどがある 1。予測符号化にはすでに軽く触れたので、人工知能ブームに触れると、今回の人工知能ブームは認知科学との関連は薄いのだが、それでも考えさせられることはある。私が見た最近の人工知能と結びついた認知科学論文で目についたのは、自然の知能と人工知能との差に注目したものだった。確かに、最近の独自に高度化したニューラルネットワークを見ていると、現実の脳との違いの方に目が行ってしまう。そして、それを考慮に入れるとBermúdezの本でも詳しく触れられている第二次人工知能ブームに基づいたコネクショニズムの説明が認知科学の教科書にどの程度必要なのか疑問に感じてしまう。

それにしても、認知科学を理解する上で最小限の共通事項とはなんだろう。一般的には情報処理アプローチと言えるだろうが、だが実際に思い浮かべてみると、必ずしも認知科学の研究のすべてが情報処理の考えに基づいているとは言い難い。私の見解では(広い意味で)「心をモデル化する」ことこそが認知科学に共通の傾向と言えるだろう。そしてこれこそが還元主義的科学観に抗した認知科学の起こした最大の科学革命の成果 2だと思うのだが、それはもう私の個人的な見解でしかないので、この話は終わり。


  1. 道徳心理学ブームを含めるべきかは正直迷う。しかしそれを言ったら、ミラーニューロンや社会的認知を含めないのも問題がある気もする。本文では触れなかったがこれまた流行った二重過程説を無視するのはもっと問題かもしれない。取捨選択には本当に困るほどに認知科学は話題が豊富だ。

  2. この科学革命の成果に比べれば、「認知科学」という固有の名称や学会さえどうでもいいというのが私の個人的な見解だ。ただし同意者を見たことはない。