認知科学の教育への応用に関する一考察

「eラーニングの土台:行動主義、認知主義、状況主義学習論とその統合」発表原稿(PDF) http://kogolab.jp/cgi/joyful/img/94.pdf (http://kogolab.jp/mt/)
まず始めに言いたいことは、状況論はそのもとにかえって考えると学校教育への応用はできない、少なくとも困難であるということだ。ここではおそらく、サッチマンやレイヴ&ウェンガーやハッチンスによる状況論的アプローチと、ブルーナーやマイケル・コールによる文化心理学とが混同されてしまったことに原因がある。私に言わせればこの二つは全く違う(ちなみに、生態学的アプローチと進化心理学にも同じようなことが言える)。後者は著書を読めば分かるように初めから教育への応用が考慮に入れられている。それに対して前者は、これも著書を見れば分かるがもともとは共同体研究や職場研究が行なわれていた。ここで扱われているのは広い意味での経験であり、いわゆる教育とはちょっとずれている。教育とはそこで学んだことを後でどこかで生かすことが含意にある。共同体や仕事場での経験は違う。もちろん共同体や仕事場でもいわゆる教育は行なわれるが、大きな違いはその目的がその行なわれている領域そのものに内在していることだ。つまり、共同体や仕事場への適応やその組織の最適化が目指されている。目的が外在化された教育と内在化された現場ではあり方が全く違うし、それへの注目こそが状況論研究の最大の貢献だ。教室で生徒同士が一緒に学びましょうという共同学習だから状況的学習論だというのはちょっとあやしい*1
なぜ学校を中心とした教育では状況論が生かせないかを具体的に考察してみよう。この場合に参照になるのは教育社会学での隠れたカリキュラムの考え方だ。学校でのいわゆるカリキュラムとは各教科で教える内容の計画、つまり学習指導要領の事を指す。しかし、学校で学ぶとはこうした顕在化された目に見えるカリキュラムを身に着けるだけではない隠れたカリキュラムがあるのではないかと考える。例えば、授業中は机に黙って座っている、というのは明らかに学校ならではの体験だ。時間で区切られた授業と休み時間とで行動を変えなければならないというのも家ではない学校でならではの体験だ。生徒はまず学校で教科内容を学ぶ前に、こうした学校でとるべき態度としての隠れたカリキュラムを学ばなくではならない。隠れたカリキュラムとしては他にも、他の生徒とうまくやる(仲良くではない、そんなの建前)というのもある。この場合こうしたことは生徒や先生には教育の一部として必ずしも意識されていないが、それを学ばなくてはいけないことには変わりがない。ここで社会学的には、隠れたカリキュラムは工場や事務所での態度のあり方を反映させていたが今では…、ということも言えるがそれは省略する。重要なのは学ぶのは意識される学習内容だけではないということだ。たとえ学習内容を更新したってそれとはまったく別の問題だ。ちょっと変わった教授法を採ったって基本は変わらない。それは学校という文脈のもとで行なわれているのだから(だから私はデューイの教育論には否定的だ。学校での体験学習はそれ自身が特殊な経験にすぎない)。
有名な正統的周辺参加もこうしたことを考慮に入れないと本質を理解できない。「正統的」というのはすでに共同体や職場に参入済みだからであり(学校とは違う)、「周辺」とはそこでの実際の活動の一部に参加するからである。分かりやすく言えば「オン・ザ・ジョブ・トレーニング」と「オフ・ザ・ジョブ・トレーニング」の違いに近いとも言える。本物の仕事をしながら学べってこと。そのとき顕在的な仕事内容ばかりでなく、潜在的な仕事態度も学ぶのだ。ただあえて文句を言うと、レイヴ&ウェンガーの著作を見ても出てくるのは文化人類学による成果ばかりで、なんだか発展途上な第三世界での例ばかりだ。そうした伝統的な社会では正統的周辺参加はうまく働くかもしれないが、先進国の大きなシステムが多重化された社会でもうまくいくのかは私は怪しいと思う。たとえ良心的な企業がうまく取り入れたとしても、やがてより大きなシステムに飲み込まれてしまうのが関の山ではないかという悪い予感がする。*2

  • 参考サイト

インターネットの法と慣習 [最終回] 現実2.0, HotWired Japan, 白田秀彰 http://hotwired.goo.ne.jp/original/shirata/060328/
学校ってそんなに重要?って話。
ヴィゴツキー理論の社会歴史的コンテクスト」 http://libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo47/kj4710.pdf(PDF)
活動理論やプラグマティズムに偏ったヴィゴツキー理解への批判はこちらへどうぞ。これはお薦め、ただし難しめ。私はヴィゴツキーヘーゲルとの関係で見たほうがいいと思う、哲学研究者さ〜ん!出番ですよ。
教室学習文脈へのリアリティ付与について http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/ksuzuki/resume/journals/1995b.html
というか、共同学習は状況的学習じゃないってことはTripp1993ですでに言われていたんですね。

*1:この後でエンゲルストームをネットで調べてたら、どうもこれが共同学習論の源らしいと分かった。ならば状況主義と言わない方がいいと思います(むしろ活動理論)。ネット上の情報によるとエンゲルストームはどちらかというと文化心理学に近い気がする(西山 賢一 http://www.interfield.org/book/0501.htmlとかhttp://www.interfield.org/essay/essay200410b.html。翻訳は「拡張による学習」ISBN:4788506890。活動理論によるeラーニングはこちらを参照 http://tomac.jp/paper/paper12.pdf(PDF)←「境界を横断する水平的運動」みたいなポストモダンなスローガンもうやめませんか)。やっぱ、学校の現場と職場の現場じゃ全然違うと思う(ベイトソンによる学習の階梯理論を持ってきたって話は同じ。つまり「我々は状況のオプションを1つ余分に持っているというだけに過ぎないのです」(http://www.platz.or.jp/~virgil/Vygotsky.htmlから引用)ってこと)。

*2:近代化が進んだ社会では<システム>分化が進み、<教育システム>だの<経済システム>だの<法システム>だのが独立して動いてしまっている。教育を良くしていこうという意図は理解できるが、しかしそれも<教育システム>という一つの閉じられた世界で行なわれているのに過ぎないのではないか。そんなのは学習内容を更新したって同じではないのか。もちろんいろいろな学校改革が行なわれているのは知っているし、そうした努力は必要だ。しかし教育の目的が外側にあることを考えると、誰が教育を論じるかで全く違った結果に陥ってしまう。そんなのその人がどの<システム>に依拠しているかで決まってしまうのに(企業的、家庭的、役所的、学校的、政治的…などの価値観)。しかし、生徒が社会の中のどの<システム>に行くのかは別の問題だ。私も学校の必要性は認めるが、一番重要なのは学校に頼りすぎないで済むようにすることではないのか。学校はあくまで手段であって目的ではないし、そもそも学校のあり方が誰によってどう決められているかを考慮に入れる必要がある。その上で<教育システム>をどうするかを考えた方がいいような気がする。