宮台真司は日本の戦争責任を正当化できたか

今回の宮台真司は難解だ*1。しかし、言いたいことはただ一つのようだ。「日本は戦争責任を取れ!」。これを正当化したいがために論旨を展開しているようだ。基本的な意見としては賛同できる。ただし、なぜこんなにめんどうな理屈を必要とするのかは、この文章を読むだけではよく分からない。
分かりやすく図式化すると、ヤスパースの「個人/集団」の罪に対して、ヴァイツゼッカーの「罪/責任」を対比させているようだ。ヤスパースは集団の罪を持ち出すことで、将来のドイツ政府による戦後賠償を根拠づけた。他方で、ヴァイツゼッカーも集団的責任を持ってくることで、ドイツ政府による戦後賠償を根拠づけたところまでは同じである。ここからが違う。罪ではなく責任を持ってくることで、「戦争を知らぬ世代」をネオナチ的反発の生じやすい「罪Schuldの重荷」から解放する、という。理屈としては理解できるが、はたして価値のある理屈なのだろうか。
まず、現実的な反論から。いくら大統領が責任だと言ったからといって、当の「戦争を知らぬ世代」にそれが理解できるわけとは限らない。それは政治家の勝手な理屈だ。責任があると言われようが、罪があると言われようが、そこに何らかの劣等感が生ずることに変わりがない。だから、ネオナチに走るわけであって、うまい理屈付けによってそれを防げるわけではない。まあ、ネオナチを処罰する後ろ盾にはなりうるが、そのためにこの理屈が役立っているのかはよく分からない気がする。単に政治家の自己正当化に見えなくもない。ネオナチを取り締まるだけで、問題は解決するだろうか。
次に、理論的な論議。終わりで宮台真司は、「罪=過去言及/責任=未来言及」という対比を示している。過去の罪はもう償ったとして、過去を単に無きものにしようとする日本。それに対して、過去の責任として償い続けなければならないとして、未来への方向性を指し示すドイツ。ここまではいい。問題は最後だ。おそらくここで言いたいことはこうだ。親子の縁が切れないように、国家との縁も切れない。なぜなら、それを切る事は自己の同一性を失うことである。それこそが自己の入替え不可能性を保障するものである。だから、日本は戦争責任を取り続けなければならないという。西尾幹二の「道徳上の責任から政治上の責任へ」を認めないのはこのためだろう。つまり、日本の戦争責任は単なる政治上の問題ではなく、国民の実存の問題であると(ここはちゃんと説明しろよ)。
ここで初めに挙げられている夫婦の例に戻ろう。夫婦は個人同士の自由なる契約なのに対して、その後に出る親子の例は生まれたからという必然的関係である。この時点でおかしい。夫婦と親子では、前提の設定のされ方が異なる。分かりやすく言えば、夫婦であることには自由意志が働いているが、親子であることでは自由意志が働く余地はない。これを一緒にいたという事実性によって括るのは、ちょっと乱暴だと思う。話を先に続けよう。宮台真司はこれを国家と個人の関係にも延長しているようだ。この国家に生まれたのだから責任があるのだと。ここにある関係は何だろう。おそらく法的関係だろうか(特に知識がないので推測)。この国家に生まれたからには、国家と法的関係を結んでいると。そもそも法的関係とは何であるのか。強制?契約?…。ここまでくると私の知識では手に負えない。国家と個人の関係とは何であるのか、本当にそれは選択肢ではありえず、あくまで選択前提(または先験的選択)であると言い切ることができるのか。いや、そもそも国家とはいったい何なのか。ここにはあまりに難しい問題が潜んでいる。