地味さに耐えられない私たち

近代文学は終わっただの、現代思想は終わっただの、と言う言葉を見るたびに、あぁまたバカがひとり、とか悪態ついてしまう。だいたい、何かが終わっただの言うやつには危機感など全くなく、すでに自分に慣れ親しんだ物への追憶か権威的な人物への追従かに過ぎない。別に文学も思想もなくたって暮らしていける。仲正昌樹も言っていたが、文学なんてなくたってまともな小説は残るし、同じように思想なんてなくたってまともな著作は残る。ようするに彼らに読解力などなく、単に昔を懐かしむヘタレにすぎない。本当に危機感を持っているなら、自分たちで出来ることはやっていこうと思う方がまともだ。
近代文学だの現代思想だのといった他人のつくった大いなる概念にすがることほど下らないことはない。そんなことせずとも、作品そのものを純粋に読んだり楽しんだりすればよいだけだ。あるのはせいぜい読解力の違いや趣味の高貴さ。自分には読解力があると言わんばかりのやつほど、たいてい大したことはない。そういう点では、日本には文芸評論家なんてもう要らない。
だいたい、日本の文芸評論は特殊だ。古典と現代作品をろくに読まず、ちょっと前の近代作品ばかり読む。欧米なら古典も現代作品も普通に扱う。しかも、彼らのやっていることと言えば、文学をネタに社会や政治を話題にしているだけ。あくまで時事的であり、普遍性からは遠い。以前、文学全集で戦前の評論を覗いたことがあるが、今となってはくだらないタワゴトばかりだ。戦後だってえらそうなことはいえない。私の印象では、大御所の小林秀雄吉本隆明があれば十分で、あとはちょっとは他の著作をくわえてもいいかなと思う程度だ。ようするに、彼らにとって文学はネタに過ぎず、作品としてみる気があるとは思えない。
自分に理解できてかつ高尚そうに思えるもの、それが文芸評論だったりする。私も一時は読んだものだが、今となっては再読不可能になってしまった。まともな著作は他でさがした方が早い。評論家ってヘタレじゃん。というわけで、何もヘタレは現代だけに存在するわけじゃない。安心しろ!もっとヘタレまくれ。世の中など大して変わっちゃいない。今も昔もヘタレだらけに変わりはない。ただメディアの発達のせいでちょっとばかり目に付くだけだ。気にする必要もない。ヘタレて気を晴らしまくれ。マスコミによる批判などお座成りな役割を演じているだけなんだから。みんなで評論家ぶっちゃえ!
でも、やっぱりそんなの嫌、と思うんだったら、地味に真面目にやることだ。勉強でも活動でも、本当にまともにやろうと思ったら地味で目立たなく報われにくいものだ。それに耐えられないんだったら、そんなものに関わる必要などない。何もあなたがそれに関わる必要性などどこにもない。それでも構わないという人だけが関わればいい。そんなやつは現代社会では変人なのだが。変人にも動物にも生まれついていないのならば、残る道はヘタレしかない。ヘタレを非難するやつは間違っている。もっとヘタレるんだ、もっと速く、もっと急いで。文芸評論家みたいな既存のヘタレに負けるな。ヘタレることは私たちのいる社会での数少ない生きる道なのだから。ヘタレであることに劣等感を持つなかれ!
ちなみに、私自身は変人気味の人間だ。