セラーズ「経験論と心の哲学」第3部「見える」の論理 を解説してみる

「赤がある」と「赤が見える」と*1はどちらが根底となる命題なのだろうか。伝統的な哲学の議論では「赤が見える」が根底であり、「赤がある」はそこに存在が付与されるものであるとされた。しかし、セラーズはこれを否定する。「赤がある」こそが根底であり、「赤が見える」はそれが疑わしいときに用いられるのであると。どういうことだろうか。
実際に言語を用いる場面を考えれば分かる。目の前に何かがある場面で他者に向かって、「赤がある」と言うときと「赤が見える」と言うときとを比べて考えてみればよい。他の人にもそう認めてもらえると分かっていたら普通「赤がある」と言う。「赤が見える」とわざわざ言うのは他の人にそう認めてもらえるかがあやしいときである(そう見えるのは私だけ?)。そしてこれが私だけでなく一般的な人々の言語の用い方だと認めたうえで、言語を習得する場面を考えると良い。他者が目の前に何かがある場面で私に向かって、他者が「赤がある」と言ったときに私はそれを赤であると対応づけられるが、他者に「赤が見える」と言われても私には対応づけられない。疑問文にするとより分かりやすい。目の前に共通に対象物が見えている場面で、「あれは赤であるか」という問いかけは「あれは赤に見えるか」という問いかけよりも不自然だ(「あれは赤ですか」なんて先生のする言葉遣いだ)。両者に共通に対象物が見える場面で「赤がある」文によって赤概念が習得され、「赤が見える」はそののちにやっと使えるようになる*2
伝統的な哲学の議論のように「赤が見える」が先なのではなく、「赤がある」こそが先である。共通に見える場面で*3存在文によって概念が習得されるのだ。この概念習得時に、私の見え方と他人の見え方が擦り合わせられる。ここで注意すべき点なのは、私にとってどう見えるかという主観的なクオリアそのものはこの議論ではどうでもよくて、相互にクオリアを介して行なわれる対応付けだけが重要である。存在文の習得を前提としてどう見えるかを報告する感覚文が可能になる(逆ではない)。「赤がある」文によって、あなたは一般の人がどんな場面でそう見えるのかを学ぶことになるのだ(自分にとってどう見えるかなど概念学習のための参照データに過ぎない。ある種の色の区別がつかない色盲の例で考えてみよう)。

経験論と心の哲学

経験論と心の哲学

私見では、アメリカの心の哲学の始原であると同時に頂点。ただし無茶苦茶に難解なのでお薦めしません(翻訳はいいのですが)。上の説明は相当に言い換えています。それにしてもセラーズのこの論文を知ってしまうと、アメリカの心の哲学の流れはこのセラーズ論文の注釈に過ぎないのではないかとさえ思ってしまう(その割に難解さからか参照はされない)。一応言っておくと、私にもこの論文は理解できないところがまだいろいろある。

*1:日常では「赤だ」とか「赤く見える」とか言うだろうが、ここは命題の違い(存在と感覚)を分かりやすくするためにこうした。各自で言い換えて読んでもらって構わない。

*2:何かを赤ん坊の目の前に差し出して「これは赤でちゅよ〜」と言う場面を考えると分かりやすい。その場合は「これは赤く見えまちゅよ〜」とは言わないものだ。ただし赤ん坊に対象物が見えないがママには見える場面なら「ママには赤く見えまちゅよ〜」とは言うかもしれない。でもこの場面では赤ん坊には見えないのだから視覚からの赤概念の習得はできない。こういう場面想定はしてるときりがないのでここまでにする

*3:視覚中心で話をしてるが、他の感覚を交えても同じだ。盲目の場合の話も同様に可能だ