応答コメントが長くなったので、こちらに転用

心理学の実証研究はそれこそ山のようにあるが、新しい科学的発見なんてめったにないし、それ以前にそうした研究にどんな意味があるかさえよく分からないことが多いのが現状だ。
山岸俊男の実証研究はもともと職人的なきちんとした研究であり、それこそが最大の長所だ。しかし、実証研究を意味付けようとしたり、応用に転用したりするときに困難が生じる。安心社会から信頼社会へって言ってることはもっともらしいが、そんな転換どうやれば出来るかは実のところよく分からない。認知革命以降で分かったことのひとつは、直接的な意識への訴えかけだけではそうは人は変わらないということである。じゃあ環境を変えればって言われても、だいたい周囲の人間そのものが(かなり重要な)環境の一部でもあるのだから、話は堂々巡りだ。流行気味の適応概念も、ネオ・ダーウィズムやモジュール論のような基礎原理にさえ従わないもっともらしいだけの説明がいくらでも出てくるから問題ありだ(これら基礎原理の用い方にも問題を含む)。だからといって、ある社会構成主義者みたいにともかく実践だって話も、単なる実践に過ぎないならそこに学者が参加する必然性は実はあまりない。心理学の実用的な応用には相当の困難がある(そして、その困難が意識されないのはさらに問題だ)。
で、後は私の個人的意見。教育や臨床への応用を考えるのはそれはそれでいいのだけれど、その前にあまりに認知科学の成果を知らなすぎると思う(基礎への理解なき応用には私はうんざりしてる)。道徳を教えられるとでも思っている(常識レベルで批判できる)バカ話は置いとくとしても、例えば共同学習論のようなアカデミックな話にもかなりの問題がある。アメリカの学習科学では科学的思考法を身につけるために共同学習が手段として用いられているに過ぎないのに、日本では手段と目的が摩り替わってしまって、学校的共同性の生徒への押し付けな傾向が見られる(生徒はいずれ学校を卒業して社会に出ることが考慮されていない。佐藤亜紀のブログ記事http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2007/06/2007613.htmlも参照)。これは認知科学の成果を理解していないことの典型例だ(学習科学は認知科学の応用だから始末が悪い)。
教訓:早まった応用に走るのは劣等感の現われでしかないので、根底からもうちょっときちんと勉強する努力をしよう!