近年の哲学での方法論的自然主義の隆盛は明らかなのに日本ではあまり知られてないよねぇ

自然主義とは何か?その二類型

自然主義について詳しくは哲学者パピノーによる「SEPのNaturalismの項目(英語)」がお勧めなんので是非参照してもらいたい。論者によっては用法がかなり異なるので定義するのは難しいが、主要な用法としては存在論自然主義と方法論的自然主義が挙げられる*1
存在論自然主義とは自然なものだけが存在するとする考え方で、その代表が物理的なものだけが存在するとされる物理主義である。唯物論とも称されるこの考え方は昨日今日現れた訳ではなく昔からあるもので特に目新しくはない。ここでは、近年になって話題になっている自然主義を語りたいのでこちらは無視する。
ここで話題にしたいのはもちろん方法論的自然主義の方である。方法論的自然主義とは経験的探求によって認められたものだけを認めようとする考え方だ。もちろん、それを実際に既に適用している領域が科学であるが、哲学においても同じように経験的探求に従っていこうということだ。哲学における方法論的自然主義の源はクワインにまで達するが、それが特に二十世紀に入った辺りから哲学者の直観を疑うという形で実験哲学として発展していくことになる。実験哲学について詳しくは、認識論については「実験哲学からの挑戦」、倫理学については「第3章 実験倫理学の可能性、問題、限界」(PDF)を参照してください。有料になってしまいますが日本語による実験哲学の説明としては「実験哲学という実験」の創始者本人ノーブによる説明も分かりやすいのでお勧めです。

方法論的自然主義と言えば一般的には実験哲学

推理小説の探偵にアームチェア型とアウトドア型がいるとしたら、これまでのたいていの哲学者は明らかにアームチェア型ばかりだった。足で証拠を探るアウトドア型の探偵のように経験できる証拠を自ら探しだすわけではない点で(数学者などの例外を除く)科学者とは異なると思われていた。ならば哲学者は何に頼って物事を考えるのだろうか。哲学者は考えを推し進める上で何が知らの直観に頼っていたのが現状だ。プラトンの対話篇を思い浮かべてもらえば分かるように、そこでそこでの議論されている説が正しいかどうかは最終的にはその場にいる者達の直観に頼っている。なぜなら、その場での対話以上の証拠をわざわざ求めていたら、その場での対話としては成立しなくなってしまう。伝統的に哲学者とはアームチェアの上で考えるだけというイメージが強かった。ガリレオに代表される科学革命はそうした哲学的な思弁から脱するための試みであったと言える。しかし科学が発展する中でも哲学はそれだけの独特の領域(例えば認識論や倫理学)で仕事を行ってきた。しかし、近年になって哲学独自の領域の中にも証拠を求める科学的思考法が入り込むようになった。

もう一つの哲学での方法論的自然主義的な傾向

近年の(哲学における)方法論的自然主義の隆盛は激しくなっているが、日本ではあまり知られていない。その最大の理由は、そもそも日本では元来の分析哲学そのものがさっぱり知られていなくて、そのカウンターとしての(方法論的自然主義を用いた)実験哲学の意義が理解できないことがある。しかし、実験哲学は近年の方法論的自然主義の隆盛の片面であるように私には見える。もう一面には、主に科学哲学で生じている科学的成果を参照した哲学的な議論があるように思う。経験的証拠に基づいているという点ではどちらも共通であるが、実験哲学では経験的的な探求が哲学の内部で行なわれているのに対して、科学哲学では従来のどの領域にも当てはまりそうな抽象的な議論があまり見当たらなくなり、個別の科学の成果を参照しながら議論するようになってきている。この場合は経験的探求は哲学の外部(主に科学)によって担われることになる。もちろんこれらは現時点での表面的な違いに過ぎず、過去の科学革命のように前後で哲学から科学への転換が行われることになるのかもしれない。それが推し進められれば哲学は消滅するいらない分野であることになる。
正直に個人的な印象を述べると、最近の科学哲学の議論は(ノーブ効果のような例外を除くと)科学者による科学的成果を参照しているがゆえに、もともと科学者の間で議論になっていた話題に追従して議論を整理しているだけに見えてしまう。だとしたら、哲学者が科学者に対するアドバンテージは見当たらなくて、その科学研究に従事している分だけその領域に詳しいので科学者のほうが有利だ。哲学者の方が考えるのが得意だと端的に思っているのなら、それはただの思い上がりに過ぎない。科学者は哲学者などいなくてもこれまでも十分に深い議論をしてきたのであり、それに乗っかってるだけの哲学者(案外多数)に偉そうなことは言えない。

これからどうなる?

近年の方法論的自然主義の隆盛は徹底的に推し進めれば「哲学いらない」説に辿り着き、実際にそれを主張している学者もいる。もしそれが正しいなら放っておいても哲学は消滅し、残るはせいぜい古いテキストを読解するだけの哲学史(何のために?)だけになってしまうのかもしてない。今はまだ哲学いらない説の主張そのものが哲学の営みの内に入ってしまうので、文字通りの哲学の消滅にはならないが、哲学の存在意義が問われていることに変わりない。

*1:多元論的自然主義の可能性?哲学と科学の連続性をどうとらえるか」の第一章が、クワインの諸著作から(そうと名指しはされていないが)方法論的自然主義存在論自然主義を抽出した見事な論文である