日本の俗流クオリア論を撃破する
日本はクオリアなる言葉が一般にも知られている奇妙な国だが、しかしその一般的なクオリア理解はもともとの哲学的なクオリア理解とはあまりに異なっていてとてもおかしい。日本でクオリアなんて用語が流行ったのは、小泉旋風真っ只中のポピュリズム時代でのある脳文化人Mの活躍のせいなのだが、未だにその後遺症はあちこちに残っている。それを正すのがこの論考の表向きの目的だ*1。
もうひとつの目的は、心の哲学における機能主義を正しく理解してもらうことだ。今でも機能主義は心の哲学どころか認知科学でも主流の立場だ。日本ではごく少数の例外を除くと心の哲学における機能主義がろくに受け入られておらず、まともな擁護どころかましな解説さえろくに見かけない。まともな解説も理解もされてないから、まともな批判がされているといえない。クオリア概念はもともと機能主義批判として現われたのだから、クオリア解説と機能主義解説をセットにするのは正当な試みだ*2。
クオリアは主観的体験全般を指す言葉ではない
まず一番理解してほしいのはこの点だ。日本ではまるで主観的現象の全てがクオリアのように語られることがあるが、これは誤りだ。クオリアとは機能主義では理解不能な究極の主観性のみを指して使うのが正しい。よくある間違いに、心理学でゲシュタルト現象と呼ばれる図の知覚がクオリアの証拠として上がっていることがあるが、これは完全な誤りだ。ゲシュタルト現象は、単なる感覚要素の集まりが知覚であるとの考え方を批判するために現われた。本当は代表的な例は仮現運動だが、ここではクオリアの例としてよく出される錯視を取り上げよう。カニッツァの錯視と呼ばれる図では、書かれていないはずの三角形の輪郭が浮かび上がって見える。これは単なる感覚要素の集まりが知覚であることの反例であるが、これが主観的現象だからといってクオリアと呼ばれるわけではない。クオリアの基本は反機能主義だ。機能主義の基本の考え方は、刺激に対する反応やその過程*3が同じものなら内的過程も同じものだということだ。カニッツァの錯視図を見せられた者は、そこに三角形の輪郭が浮かび上がって見えることや三角形の輪郭が書かれていないことに同意するはずだ。同意というのは反応だ。どこに三角形が見えるかを指でなぞることもできるはずだし、そこから同じところに三角形が見えるらしいと分かる。観察できる反応や過程から内的過程を想定するのが機能主義なので、機能主義によってこの錯視図の主観性は十分に検証できる。一般化すると、ゲシュタルト現象は(どんなに主観的に見えようとも)本来のクオリアとは関係がない*4。
クオリアは主観的な個人差全般を指す言葉ではない
クオリアの証拠として、人の内的な感覚の主観的な特異性を強調されることがある。各個人にはその人特有の内的に生き生きとした感覚が生じていることを指してクオリアを呼ぶ人たちだ。こうした用法に対しては、いきいきさん批判のようなデリダ風脱構築的批判(または初期ロマン派的批判もしくは物象化の罠)をすることも可能だが、ここは正攻法で攻める。クオリアの基本は機能主義批判にあるのだが、機能主義にも主観的な個人差を扱うことができることを忘れてはならない。例えば、様々なワインを飲んでもらって味の区別が付くかを調べれば、その人の味覚を知ることができる。ブロイラーと地鶏を同じように料理して食べてもらって味の区別がつかなければ、その人にとってそれらは同じ味の感覚しか得られていないと結論できる。これはブロイラーと地鶏を化学的分析で区別できるかといったこととは独立した話である*5。同じ絵画を見てもらってどのような感想を持つかを語ってもらったり、その感想が単なる受け売りでないかを調べるために様々な絵画を見てもらって判定してもらうとか、ある絵画を前にしての表情や立ち振る舞いを調べたり、内的過程を調べる方法はいろいろある。そういった観察できる反応や過程を全て否定しても残るのが本来のクオリアの意味である。私たちが普段使っている主観概念のほとんどは観察可能な行動や現象から説明できる*6。つまり主観的な個人差のほとんどは機能主義で十分に説明がつく*7。
重要なことは二つ。クオリアは機能主義でも説明のつかない主観性を説明するための概念であること、感覚質としてのクオリアの存在は自明ではないこと。前者の説明は既に終えたので、後者に移る。
感覚質としてのクオリアの存在は自明ではない
この誤解は良く見かける。まず他人の持つクオリアは観察できないので、存在を確定できない。これは当たり前の事実として認めてもらわないと困る。次に、自分にクオリアがあることを他人には説明できない。他人のクオリアの観察不可能性をひっくり返せば導ける話だ。他人は私のクオリアを観察できない。クオリアとは機能主義との関係で説明できるものである。重要なのはクオリアとは論証によって説明するものであって、誰にでも指示できるものでも自明なものでもない。クオリアの存在に対してだって見えてるんだもんといった証明は不毛だ(分かんねーよ)。これがクオリアだと言えてしまったら、それは機能主義で説明できるものになってしまう。
クオリアは独我論から汎心論までのすべてを許容する
クオリアの存在を(前提として)認めたとしても、何がクオリアを持っているかに関しては様々な意見がありうる。生き物だけがクオリアを持っていると限定できる証拠さえない*8。ここでは最も両極端な意見を挙げておく。一方の極にあるのは私だけがクオリアを持つとする独我論である。主観的なクオリアを知覚できるのは知覚者本人だけなのだから、クオリアは私にだけ存在すると考えることができる。人間と外的行動が全く同じなのに内的感覚(クオリア)が全くないゾンビを想定可能だとする論があるが、この場合は私以外の全ての人はクオリアのないゾンビだということになる。他方の極は全ての物がクオリアを持つとする汎心論だ。つまり、他人の持つクオリアを観察できないように温度計の持つクオリアや小石の持つクオリアも単に観察できないだけであり、そうした物々にクオリアがないことを否定する根拠はない。そこから、全ての物にクオリアがありうるという議論は十分に導ける。クオリアの存在を認める人に、こうした極端な可能性を受け入られる準備ができている人がどれぐらいいるというのだろうか。
まとめ
クオリアを擁護しないと個人の尊厳が失われるとかそういう心配は全くない。クオリアを否定する必要もないが、いちいち擁護すべき理由もない。こんなのただの哲学的論議に過ぎない。それを認めたうえでクオリアを議論したいなら勝手にすればいい。ただし、正しい理解の下にという前提をもって議論されなければ単に下らないだけだ。
追記
以上のクオリアの本来の定義から、クオリアを脳科学を含む科学一般で扱えないのは自明である。これがクオリアであると外側から言うことはできないのだから、ある脳状態とクオリアとに関連があることを知ることは不可能である。だから話題を脳科学に限定させても、「結びつき問題はクオリアとは関係がない」(色や形の結びつけであってクオリアの結びつけではない)とか「神経ネットワークの同期をクオリアに関連付けるのは無理がある」(これがクオリアだと外から分からないのだから関連付けできない*9。意識ならば意識的とされる行動を通して可能)。クオリアは初めから哲学的問題であって、どうやっても科学で扱えないのは定義上から自明(クオリアを科学で扱おうするのは挑戦的だとか、そういうレベルの問題ではない)。
参照するならこの文献
こんなの信用できねーぞと言う方は、チャーマーズ「意識する心」ISBN:4826901062てください。ただし、分厚い上にゴリゴリの分析哲学なので読むのはかなりきついです。別にサールの入門書その他でもいいですけど、少なくともネット上の他の記事に安易に左右されるのはやめましょう(例の脳文化人の呪いがかかっています)。
*1:クオリアに関する説明はこちらを参照→「志向的クオリアなんておかしな用語を頼るのはやめよう運動」
*2:始めに注意しておくが、ここで言及する機能主義は広義の機能主義であり、過去に強い人工知能として批判された機械論的な機能主義だけを指してはいないことに注意。知識のある人向けに言えば、古典的計算主義もコネクショニズムも広義の機能主義(または因果論的な機能主義)であることに変わりはない
*3:心の哲学での機能主義の正確な定義では刺激と反応しか使われないが、実際の認知科学の研究では過程(例えば反応時間)の観察(例えば測定)もする。この場合はその観察された過程も反応の一部として捉えれば機能主義の枠内だ。こんな細かい話をせずとも、クオリアがいかなる外からの観察とも無関係であることに変わりはないので気にする必要もない
*4:科学的な実証研究でもこうした刺激-反応の図式を使って研究するのは当たり前である。でなければ、例えばその脳波なり脳画像なりで捉えられた脳活動が何を意味しているのかが全く分からない
*5:ちなみにこれは間接的な外在主義批判だ。ただし心的状態と脳状態が文字通りに同一か、つまり脳状態だけから心的状態を知ることができるかという点では疑問が多い。心的状態を知るためには(脳状態の他に)外界へのある程度の参照は必要かもしれないが、これは相当にややこしい話なのでここではしない
*6:一応注意しておくと、機能主義は知覚時に内的な出来事が生じていることを否定していない。知覚時の内的出来事を一切否定しているのはむしろ行動主義の方である。歴史的経緯から言って、内的な出来事を一切否定する行動主義に対抗して現われたのが機能主義である。ちなみにデネットのようなクオリア否定は極端な偏った立場であり、クオリアの位置づけは哲学者によって異なる
*7:例えば、逆転スペクトルのような同じ色名でも対応するクオリアが人によって異なりうるという議論でも、そのクオリアに伴う細かな感情の違いなどから機能主義的に識別可能でありうる。逆に言えば、(その知覚者に現われる行動や現象として)観察できる形でいかなる区別もつかないならば、そこに違いがあるということに何の意味があるというのだろうか。「クオリアは独我論から汎心論までのすべてを許容する」の節も参照
*8:クオリアの存在を示す有名な例として、知識論法と言うのがある。どのように色が見えているかの科学的説明を知っていたからといって、実際にどう色が見えているか(つまりクオリア)を知ることはできない。ネーゲルのコウモリ論も基本は同じだ。コウモリの行動や生理学的機構を知っても、コウモリがどのように感じているのかは分からない。これは基本的に種の違いによるクオリアの違いに相当している
*9:もちろん先験的(ア・プリオリ)という言葉を使ってもダメ。カントは誰もが経験可能な事から先験性を導いている(例えば空間認識や因果認識)。先験的という言葉は使っていないが、ピアジェやチョムスキーを参照しても構わない。しかし、定義上クオリアは誰もが経験可能な事であると言えない上にそもそも指示不可能なのだからそんな論法は無意味。「「脳は心を記述できるのか」第1信 」にある引用部分(「クオリアの先験的決定の原理=…」)も参照