短期記憶の容量は七から四に書き換えられたのか?

少し前に、当時出版されたばかりの日本の心理学者の書いた一般向けの本を眺めていたら、短期記憶の容量として有名な7(±2)は今や間違っていて4(±1)が正しいと書いてあった(ネット上の論文では「前頭前野とワーキングメモリ」に同様の記述がある)。短期記憶の容量が7であるというのは心理学の教科書にも書いてある有名な話だが、それが書き換えられたと知って驚いた。ただ私は心理学の文献はそれなりに見ているので、そんな重大な話をどこでも見たことがないのはおかしいとも思った。それでこの説の元となる論文をネットで探したら見つかったので読んでみた。さらに詳しい事情を知るために、特にその論文の著者による他の文献を中心に調べを進めてみたら、なんとなく事情が見えてきた。結論としては、冒頭の本の記述は決して間違ってはいないが学者間の同意が十分にとれているかはまだあやしい…といった辺りが妥当かもしれない。

短期記憶の容量四説の著者のことばかり考えることになる

この説のオリジナルの論文とはNelson Cowanによって書かれた論文「The magical number 4 in short-term memory」だが、実際に内容を読むと単に短期記憶の容量が間違っているというだけの単純な内容ではないのだが、それは後で説明することにする。それよりも、調べていく過程で短期記憶の容量が七から四に書き換えられたという内容の論文や記事があまりないことの方に驚いた。内容のしっかりした(参照される)認められている論文なのにどうしてなのかと不思議に思った。そう思っていると、最近書かれたNelson Cowanの論文「George Miller’s Magical Number of Immediate Memory in Retrospect」を見つけた。この論文は短期記憶の容量が七である事を主張した古典的なミラーの論文についての論文なのだが、これを書いた動機は自分の主張した短期記憶の容量の書き換えがあまり広く受け入れられないことにあるようだ。ジョージ・ミラー自身(故人)にはその書き換えは受け入れられそうだと確信できただけに、余計に悔しそうにも見える。ということは、私がこれまで短期記憶の容量が書き換られたという記述を見たことがなかったとしても、そもそも学者に広く受け入れられてはいないのだから仕方がないのだったと納得した。う〜ん、気の毒なNelson Cowan!
しかし、短期記憶の容量の書き換えが受け入れられないのは、実は単にNelson Cowanの業績が無視されているとかそういう単純な問題では全くない。そこで短期記憶の容量四説のオリジナルの論文を見てみよう。この論文はかなり複雑な内容なのでここに要約することはできない(しする気もない)。しかし、容量四説はなにもこの著者が突然に発見した訳でもなく、古くはハーバート・サイモン辺りが七は多い五ぐらいじゃないか…と言っていた記録もある。この論文の重要性はただの数字の発見というよりもこれまでの研究成果をまとめあげたことに価値がある。この論文の中でCowanは短期記憶は純粋な短期記憶と複合的な短期記憶に分けられて、純粋な短期記憶の容量は四であるとしている。記憶の項目同士が手がかりになっていたりする場合は複合的な短期記憶となって容量が多くなるという。はっきりとは書かれていないが元々のミラーの容量七は複合的な短期記憶のものに近いのかもしれない(下限の七引く二である五は純粋な短期記憶の容量に近くなっている)。ミラーの古典的論文の重要性が一般に知られている七という数字によりもチャンクという記憶の単位の提出にあるように、この論文の重要性も四という数字にばかり注目するよりも短期記憶の構造への指摘にあるのかもしれない。

記憶の構造なんてもう分かってるって?

この論文以後に書かれたCowanの論文「The Magical Mystery Four」を読むと面白いことに気づく。この論文はもはや記憶容量である四は作業記憶の容量だとされている。いつの間にか見解が変わったのだろうか?おそらくそうではないだろう。推測するに、純粋な短期記憶とCowanが呼んでいたものが作業記憶と一致することに気づいたためだと思われる。もう少し後に書かれた「What are the differences between long-term, short-term, and working memory?」では、短期記憶と作業記憶との違いに頭を悩ませている。
基本的には、短期記憶は想起に関わり作業記憶は操作に関わるのだが、明らかにその間には重なり合っている部分がある。というか、項目の想起という現象としての短期記憶は確かに存在しているのだが、まとまった能力としての短期記憶の存在はかなり怪しく感じる(少なくとも作業記憶とうまく区別がつかない)。元々は長期記憶と短期記憶という記憶の分類が先にあって、後から作業記憶が提示されたせいでややこしいことになってしまったのかもしれない。思い切って短期記憶という用語は消し去ってしまったほうがスッキリするんじゃないかと個人的には思わなくもない。しかし、古典的な分類としての長期記憶と短期記憶の対は便利だし、視覚的短期記憶という用語も現在よく使われているので、単に短期記憶を用語として消し去るだけでは済まないのだろう。
もちろんここで結論を出すことなど出来ないのだが、少なくとも心の能力を(言葉で)理解するのは思われている以上に大変な作業なのだ!