宮台真司の再帰的決断からフーコーの「生存の美学」の方へ

宮台真司の政治=社会分析は相変わらず面白い(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=302)。この文章で宮台真司は、初期ギリシア的=ルーツ右翼的=欧州リベラルの価値観、を提示している。初期ギリシア=プレ・プラトン的、つまりソクラテス以前といっても一つにまとまっているわけではない。少なくとも叙事詩の時代と悲劇の時代とには分かれる(ブルクハルト「ギリシア文化史」も参照)。そのあたりは宮台真司は適当だ。
ところで、この文章の中にある「生存の美学」という言葉を見て何か連想できる人はどれほどいるだろうか。気づいている人には分かるように、ミシェル・フーコー「快楽の活用」である。この著作ほど誤解されている著作はない。「生存の美学」という言葉が使われていることから、この著作はフーコーの実存への回帰だとされてきた。フーコーといえば「言葉と物」の人間廃棄で有名だ。私は「言葉と物」は読んでいないのでよく分からないが、少なくとも「快楽の活用」に関してはあまりに単純化しすぎていると言える。ある意味、この著作で扱われているのは、宮台真司のいうところの「再帰性」そのものである。それはこの著作が扱っている時代からも分かる。
確かに「快楽の活用」で扱われている時代は古代ギリシアである。しかし。粗雑に古代ギリシアと括ることなどできない。すでに述べたように、ソクラテス以前といっても一つにまとまっているわけではない。それどころか。この著作で扱われている時代はソクラテス以前でさえない。この著作で扱われているのは、ソクラテス派の時代である。それは引用文献を見れば分かる。主な引用文献の著者が、プラトン、クセノフォン、アリストテレスなどのソクラテス派、およびその同時代人。もっと後の時代の著作でも、ディオゲネス・ラエルティウスの哲学者列伝のソクラテス派の記述だったりする。フーコーニーチェ好きを考えるとおかしなことだ。ニーチェといえば古典ギリシア悲劇を扱った「悲劇の誕生」があるのだから。そこの所に注意せずに評価するのはあまりに不注意だ。それは、それにはっきり言及しないフーコーもまずいが、それに気づかない読者もちょっとまずい。読解力のないやつなど、相手がどんなやつであれ私は信用しない。
ギリシア社会を作り上げていった叙事詩の時代、ギリシア社会が成熟した悲劇の時代、そして、爛熟して没落の道を歩みつつあるソクラテス派の時代。どう考えても、ソクラテス派の時代など良く扱われるなんておかしい。それもニーチェ好きのフーコーがだ。ここに注目しないと、この著作の本当の面白さは味わえない。明らかに、あえてこの時代を扱ったのだ。前回の著作から空白期間を経て、フーコーは何かに気づいた。それを単に、主体への回帰、といって終わらせてしまうのは、あまりに貧しい。ここには凡庸な人間には気づきにくい何かがある。それは何か。それこそが宮台真司のいう「再帰性」ではないかと、私は今回気づかされた。
一般的にはソクラテス派の道徳はキリスト教の道徳と同じようなものとして扱われてきた。ニーチェソクラテス派への批判はそこに由来する。これを歴史家フーコーはひっくり返す。表面的には似ているソクラテス派の道徳とキリスト教の道徳とは、歴史的文脈を考慮に入れたら、全く異なる姿を現すのではないか。これがすべての出発点だ。ソクラテス派の道徳は単なるルサンチマンによる抑圧ではない。それは爛熟したギリシア社会において、「あえて」選ばれた節制生活という知恵である。
詳しくは実際に「快楽の活用」を読んでもらうしかない。はっきりいえることは、ソクラテス派は単なるヘタレではない。それはニーチェハイデガーによって歴史的文脈の上で戦略的に練られた評価にすぎない。イデアという真なる恋への道は、何もかもが当たり前になった爛熟したギリシア社会で「あえて」選ばれた道である。それは若者への愛を通して感染する。そして、そこにソクラテス派という共同体(領土)が出来上がる。この共同体は当たり前に出来上がったものではない。それは再帰的に「あえて」作られたものだ。それもある反抗の形といえる、後に陳腐化する運命だとしても。
こう考えると、宮台真司が本当に見るべきはソクラテス派なのではないかと言う気もしてくる。それが正しいかどうかは私には分からない。それは読者ひとりひとりが判断することである。それもまた一つの決断だ。

快楽の活用 (性の歴史)

快楽の活用 (性の歴史)