自然科学と確実性の問題

いくら我々が自由だといっても、それは物理法則が許す範囲での自由に過ぎない。私には移動の自由があるが、今から一秒後に月に移動する自由は宇宙が禁じている--少なくとも、物理はそう言っている。どうあがこうが、我々は宇宙という監獄の中の囚人なのだ。
「道徳やしつけの根拠は自然科学にある」より

この引用文の言われていることに私が感じる違和感は、ウィトゲンシュタイン「確実性の問題」で話題にされている問題を参照するとよく分かるだろう。

93節 ムーアが知っていることをあらわす命題は全て、人がその反対を信じるための理由を想像しがたい類のものである。例えば、ムーアが彼の生涯に亘って地球から殆ど離れることなく過ごしてきた、という命題である。――ここでもまたムーアに代わって私自身についてこれを言うことができる。このことの反対を私に信じさせるようにするものがあるとすればそれは何であろうか。記憶か、それとも私がそのように聞かされたかである。――私がこれまで見たり聞いたりした全てのことから、人間は誰一人としてこれまで地球からはるか遠く離れたことはない、と私は確信している。私の世界像のうちにある何者も、この反対に与することはない。
94節 しかし私が自分の世界像を持つのは、その正しさを確信したからでもなければ、確信させられたからでもない。それが、私が真と偽とを区別するための伝承された背景だからである
「いわゆるウィトゲンシュタインの「世界像命題」をめぐって」(PDF)からウィトゲンシュタイン「確実性について」の孫引き

私に手が二本あると改めて確信できるような場合が想像可能である。他方、普通なら、確信などあり得ない。「だが、君は目の前に手をかざしさえすればよいのだ。」――今私が自分に手が二本あることを疑うなら、私は自分の目を信頼する必要もなくなるのだ。(友人に尋ねてもよいことになるだろう。)
このことは、例えば「地球は何百万年も前から存在している」という文の方が「地球はついこの五分前から存在している」という文より明瞭な意味を持っていることと関連している。というのも、後の文を主張する人に対して私は次のように尋ねるであろうから。「この文はどのような観察に関係しており、この文と抵触する観察はどのようなものだろうか。」と。はじめの文については、私はそれがどのような思考の範囲に属し、どのような観察に属しているかを知っているからである。
「いわゆるウィトゲンシュタインの「世界像命題」をめぐって」(PDF)からウィトゲンシュタイン哲学探究」第Ⅱ部11章の孫引き*1

重要なのは、その人にとって確実とされていることが命題として言語化されることの滑稽さだ。地球上では物は地上に落ちるだの、人は呼吸をして生きているだの、といった常識レベルのことに対していちいち自然科学を持ち出してうんぬんするのは変だ*2。自然科学の役割がそんなところにはあるわけがない。こういうタイプの意見を見るとはっきり言って、余計なお世話だなぁと感じる。

*1:これは翻訳を持ってるけど面倒なので孫引き。ちなみに大修館版全集の「哲学探究」ではp.442に該当の文章がある

*2:こうした人の持つ自然に対する素朴な理解、素朴物理学や素朴生物学の知識、がどの程度生得的かはここでは別問題。そういう話の方がこのブログにふさわしい気もするけどねぇ