志向的クオリアなんておかしな用語を頼るのはやめよう運動

クオリアはもともと感覚質だけを意味した用語だし、志向性はもともと言葉が何かしらの物事に向けられていることを意味している。つまり、志向性は基本的に感覚とはあまり関係がないし、あったとしても言葉から感覚への関係であって逆ではない。というか、言葉から感覚への関係ってのは(直接の)指示であって、志向性とは区別される。*1
以下、面倒に巻き込まれるのがいやなので匿名トーク。だいたいこの人はクオリアの意味が広すぎておかしい(ゲシュタルトクオリアか?)。志向的クオリアは独特の用語としてなら使ってもいいが、正当性はさっぱりないことは知っておこう(むしろ誤解の元)。この人は脳科学者としては優秀かもしれないが(ただし私には評価不能)、認知科学者としては大したことない(これなら私にも評価可能)。

感覚や経験は幅広く変化する。例えば、私が紙やすりに指を走らせる、スカンクの匂いをかぐ、指に鋭い痛みを感じる、明るい紫が見える、激しく怒る。このそれぞれの場合において、私は全く異なる主観的な性格を伴った心的状態の主体である。そこには私がそれぞれの状態で経験しているような何かがあり、それが持つ何かしらの現象学がある。哲学者はよく内省的に接近可能な私たちの心的生活の現象的側面を指して「クオリア」(単称では「クアレ」)という用語を用いる。この用語の標準的な広い意味では、クオリアの存在を否定するのは難しい。次のような問題では特に意見が一致しない。どの心的状態がクオリアを持つか、クオリアはその伝達物の内在的特性か、クオリアは頭の外側と内側との両方の物理的世界にどう関連しているのか。クオリアの地位は哲学では熱心に議論されているが、その理由の大部分はクオリアが意識の性質への的確な理解に対する中核であるからだ。クオリアは心身問題のまさに中心軸なのだ。
スタンフォード哲学百科の項目「クオリア」より

志向性とは、物事や特性や出来事の状態に関している・を意味している・を表わしている心の状態のことだ。志向性の難問は、心の哲学言語哲学との間の接点にある。この用語そのものは、中世スコラ学に起源を持ち、十九世紀末ごろにフレンツ・ブレンターノによって復権された。「志向性」は哲学者の言葉である。志向性(Intentionality)はラテン語のintentio(これは動詞intendereに由来している)に由来し、何かしらの目的や物事に対して向けられていることを意味する。
スタンフォード哲学百科の項目「志向性」より

この志向性の説明はあまりに簡潔で分かりにくいので、次の記事も参照するとよい。
志向性について(メモ) http://plaza.rakuten.co.jp/oniyannma9/diary/200706180000
ちなみに、これ(おかしな用語に気づいた)をきっかけに心の哲学に関する説明の改訂版をただいま準備中だ。もちろん、クオリアや志向性も扱う予定だ。ただし、意識に関してはやっぱりあまり扱う予定はない(記述が全体の文脈から浮くし、たいだい私自身の興味があまりない。こういうのは興味ある人にやってほしい)。

*1:後から知覚の志向性もあったと気づいたが、これは知覚と外界との関係なので、やっぱりクオリアとの関係は基本的にはない。ちなみに、言葉の志向性では外界の存在を前提にする必要がない