■
最近はツイッターでよくつぶやいているが、これはラジオ関連の特別な事態が原因でやってるだけで、別にツイッターが好きになった訳ではない。サービスで認知科学関連のつぶやきもしたこともあるが、反応もないしおそらく理解もされてないのでやるだけ無駄感が強い。やはり時事的要素の強いラジオの話題の方がツイッターには合っている。でもツイッターはその性質上で感情的な反応になりがちで議論には適してない。だいたい自分のような一つのつぶやきに内容を詰めこむタイプは内容のない大量のつぶやきをするタイプに埋もれてしまうので圧倒的に不利。かといって、真面目にブログを書いているのも徒労感が強いし、そもそもはてなブログというサービス自体が魅力が少なくて好きになれない。かといって、他のブログサービスも調べてみたけど条件に合う魅力的なサービスはなかなかない。要するにブログそのものが廃れているのだ。でも、感情的でなくきちんとした話をするのに適した他の手段がある訳でもない。本気で困っている!
認知科学に関してはネットで手に入る新しい英語の論文はよく確認しているので、新しい事情はそこそこは分かる。しかし、日本ではそもそも認知科学の基礎知識が欠けているのでやる気が起きない。最近はマスなメディアに出ている脳科学者がしている話が実質認知科学の話だったりもよくあるが、どうせ気づかれない。まあ、脳科学だけで語れることがそんなに多い訳がないので、結果として手広く手を伸ばすことになるのは当たり前だ。でも、茂木っちとかに中途半端に認知科学の名を出されるのはただの迷惑でしかない。認知科学は日本での認知度の低さにも関わらず国際的には十分にメジャーなものだ。これまでもここに書いてきたが、日本の認知科学事情には不満しか感じない。
今興味を持っている認知科学のテーマとしては心的表象があるのだが、それこそ一冊の本を書いても足りないほどのでかいテーマなので却って何も書く気がしない。行動主義と大して変わりのない馬鹿な身体化ラディカリストは今でもごちゃごちゃ言っているがもうどうでもいい。もう一つのでかいテーマとしては統計機械としての心というのがあるが、これまた現在進行形の研究で書くのが面倒。自由エネルギー原理に代表される最適化の問題はもちろんのこと、そもそもの統計そのものの面白さとその魅力も伝える必要がある(古典的統計とベイズ統計と機械学習を包括する基礎的統計教養とかを妄想している)し、流行りの機械学習を超えてヒューリスティックの生態学的合理性から進化による最適化へと話を広げるとか、まぁ考えてることはいろいろとある。
それから、個人的な興味として流行の深層学習がどう考えても実際の脳に機能的に構造的にもそれほど似ていないことから、計算論についての枠組み(マー)を考え直す必要があるとも考えている。つまり、今までは計算論レベルが曖昧だと思っていたが、実際はアルゴリズムレベルの方が怪しいのではないか?アルゴリズムレベルは入出力によって定義されるのだが、長い間そこにふさわしいのはニューラルネットワークだと思いこんできたが、実装レベルとの関係から考えても脳との類似性がもはや怪しいニューラルネットワークを安易に想定してきたのは問題ではないのかと思っている。主にニューラルネットワークだけから脳を構成できるとするアイデアは脳の唯一の原理は最適化だけであるとするのとほぼ同じだが、それは(行動の観察を含む)心理学的な事実とはそこまで合致していないように思えて、生命についての安易な想定に基づいているのではないかと疑っている。かといって、逆に現象学者のように生命概念を特別視するのは科学的には不毛感が強い(生命の神秘性を守りたいだけ?)。身体化論者が真に批判すべきなのは最適化論な気もするが、今の学者は他領域の学問的議論に目を向けないのでそういう本質的な議論はなかなか起きない。