神経哲学は用語が理解しにくいな(同一ブログからの引用ばっかり篇)

「ビルディング・ブロック・アプローチ」は、意識野全体を独立した意識の構成単位から成ると考え、特定の意識体験に関するNCCを見つけようとします。ただ、このアプローチにはちょっとやっかいな性質(問題点)があるそうです。それは、無意識的な主体が知覚刺激などによってそのときのみ意識体験をもって、また無意識的になるということが論理的にはあり得るということです。
「統合野アプローチ」は、ある特定の意識経験に注目するのではなく、「そもそも脳はどうやって意識野全体を生み出すのか」と問うものだそうです。ただ、よくよく考えてみると、新しい意識を作り出すというよりは、先立って存在していた意識野を知覚入力などによって変化させると考えるほうが良いそうです。
マインド-心の哲学5章 http://yureisoul.blog49.fc2.com/blog-entry-41.html

直接的アプローチ
意識に対応する物質的な「もの」を同定し、神経生物学によって説明することを目指すのが直接的アプローチである。ここで言う物質的な「もの」とは、特定の部位にある何かとは限らず、神経細胞の活動パターンである可能性がある。研究対象の基盤となる何かが発見されると大きな発展が期待できる。
[引用者注:省略]
間接的なアプローチ
注意、知覚、記憶,思考など意識となんらかの形で結びついているメカニズムを解明していけば、意識とは何かがわかるだろうというのが間接的アプローチである。そのため、間接関なアプローチで意識を解明するには、脳の大部分の機能が理解される必要がある。
ブレインワイズ 4章 意識 前半 http://yureisoul.blog49.fc2.com/blog-entry-13.html

これらの要約からの引用は似た事を言っているようには見える。ビルディング・ブロック・アプローチと統合野アプローチ、直接的アプローチと間接的なアプローチ。意識と相関のある神経活動(NCC)に関連してる点で、ビルディング・ブロック・アプローチ=直接的アプローチと同じだと言えるだろう。でも、もう一方は違うようだ。統合野アプローチはここでの説明ではどうやって実証研究するのか分からない。ある特定の意識経験でない意識経験って何?そもそも意識は外からは観察できないのだから他のメカニズムとどう切り離して区別するのか謎だ。間接的なアプローチは直接的アプローチとの区別がいまいち分かりにくい。直接的アプローチでも知覚とか扱うのだからなぁ。あえて区別すれば、自然科学経由のいわゆる意識研究は直接的アプローチで(クリックやペンローズ)、認知科学的には間接的なアプローチ(ダマシオとかデネットとか?)とも言えそうだが。直接に意識について検証する実証的アプローチとこれまでの成果から説明する理論的アプローチとに分ける方がすっきりすると思うのだが。

(2)[引用者注:表象は、神経細胞の集合の中でどのような形をとっているか]については次の2つ仮説がある。
(a)ローカルコード仮説
ある一つの神経細胞がある特定の対象をコードしている(例えばあるおばあさんにだけ反応する神経細胞など)という「一対一」対応仮説である。
(b)ベクトルコード仮説
複数の神経細胞が複数の対象をコードしているという「多対多」対応仮説である。(ベクトルコードは既に4章の「逆スペクトル問題」で紹介されている。)ベクトルコードは非常に経済的である。5つの神経細胞が4つの活動レベルを持つとして、ローカルコードは4x5=20通りのパターンしか表象できない。一方、ベクトルコードは、5の4乗=625通りのパターンを表彰できる。さらにチュー二ングカーブがオーバラップしていれば精密な表象が可能になる。ベクトルは空間(パラメーター空間)を構成する。そして空間を考えることで、空間内の複数の点の相互の距離が比較できる。特に、類似という関係をパラメーター空間を用いることによって示すことができる。
ブレインワイズ 7章 http://yureisoul.blog49.fc2.com/blog-entry-23.html

これって要するに、おばあさん細胞説とコネクショニズム説のことだよね。ややこしい用語を使われると分かりにくい。というか、おばあさん細胞説を文字通り信じている人はどれくらいいるのだろうか?あと特徴に分解するモジュール説も付け加えた方がいいかと…。

唯物論者は、主観的、質的な現象で物理的なものに還元不可能なものはないという。つまり、あるのは三人称的,客観的な現象だけであると。二元論者は、意識は三人称的なものに還元できないという。つまり、心的なものと物理的なものがあると。
意識は神経生物学的な過程に因果的に還元できる。言い換えれば、意識は神経生物学的な過程とは別な何かではない。しかし、意識の一人称的・主観的な性質は神経生物学的な過程には還元できない。これがサールが唱える「生物学的自然主義」であり、唯物論とも二元論とも異なる。
マインド-心の哲学4章 http://yureisoul.blog49.fc2.com/blog-entry-40.html

アメリカの分析哲学経由の神経哲学はいろいろややこしいこと言ってるけど、神経哲学の基本なんてだいたい初期の大森荘蔵の科学哲学が分かれば困らない(ただし後期の大森荘蔵は甘いので薦めない。言ってることは同じだけど)。脳の神経系を記述する物言語と主観的な感じを記述する知覚言語とがあって、この二つの記述言語の関係で神経哲学の基本はほぼ理解できる。知覚言語は物言語に還元可能だとするのか唯物論(一元論)で、物言語と知覚言語とは別々だとするのが(心身)二元論*1大森荘蔵の説は物言語と知覚言語とは重ね合わせることができるだけとする。サールの言ってることがこれからそんなに遠いとは思えない(むしろきちんとした理論になっている大森荘蔵の方が上か?)。
ちなみに、私自身は一元論か二元論かなんて不毛な質問でしかないと思う。実証科学としてはとりあえず一元論を採りながら、どのような一元論的説明が可能なのかを考えるしかない。初めから二元論を採ったら話が進まない。とはいえ、どんなに詳細な物言語による記述を行なっても、それだけでは切りがないので無意味。人に理解可能な記述にできるような理論が必要だ。

*1:分析哲学系の心の哲学で言うと、チャーチランド(夫妻で?)は一元論で、チャーマーズが二元論ってとこか。デネットは意識に関して機能主義って言われるけど単純な機能主義ではないのでややこしい。少し前のチャーマーズのブログでデネットデカルト的二元論に好意的って書いてあったたけどたぶん誇張だろうと思う(http://fragments.consc.net/djc/2006/07/dennett_changes.htmlを参照)。