アセモグル&ロビンソン「国家はなぜ衰退するのか」(上/下)は傑作だってば
「国家はなぜ衰退するのか(下):権力・繁栄・貧困の起源」
国家繁栄の原因を歴史的分析によって政治や経済の制度のあり方に求めた労作
世界に豊かな国と貧しい国がある理由を政治と経済の制度のあり方に求めた著作。自由や公正さが実現された包括的制度においては経済発展へ向けて人々が動けるようになるので豊かになるが、権力や利益が独占された収奪的制度の元では経済発展へ向けた動きが起こり得ないので貧困であり続ける。政治的制度と経済的制度の両者とその関係についてバランス良く論じた著作としてとても優れている。ただし制度そのものの形成原因については結局よく分からないまま(歴史の偶然?)で、そこが人によっては悲観主義的とも評される理由かもしれない(私自身は制度を人為的に安易に変えられるとする考え方の方が気持ち悪いのでそれが欠点だとは思わないが)。
これは日本では単に経済の本だと思われがちで、そういう関心の人たちによく手に取られているようだが、この著作は政治の本としてもとても優れている。政治家や官僚は経済学者の言うことを聞いていればいいんだ!と言わんばかりの政治オンチの経済学者は、経済成長なんていらない!と未だに平気で主張する経済オンチと比べてもウンザリ度は劣らない。そうした政治オンチとも経済オンチとも一線を画するのがこの著作である。(さすがに経済オンチへの扱いはないが)政治オンチの経済学者の考え方は無知説として著作の中でも批判されている。貧困の原因は単なる市場の失敗ではなく、権力が独占された政治制度が原因で開かれた経済制度が形成されないせいである。権力が多元化されることが経済制度が開かれたものとなる条件になるのだ。著者の政治と経済の関係の捉え方には感心してしまう。これほど政治的な洞察に満ちた経済学書というのも珍しいかもしれない。
前半(上巻)では制度説の概略と制度の代表的な形成事例が示される。まずは制度説の概略の一貫として地理説や文化説が批判された後に、包括的制度と収奪的制度の違いが説明される。それに続く次の辺りからは本書全体の中では微妙な点が最も目につくようになる。第五章の石器時代や第六章のローマ帝国と近代以前の古い時代の例が分析されるが、そもそも制度説というのは近代以降の繁栄を説明するのに適した説なので、著作のまだ早い段階でこうした特殊な事例が扱われるのはややこしくて誤解を招き易い。第七章では包括的制度が形成された代表例としてイギリスの名誉革命と産業革命が扱われていて、その歴史的記述そのものは問題ないが、章末でなぜそうした制度変革がイギリスで起きたのかを説明する際に、制度的浮動と言う名の歴史的偶然のせいにされている所に肩透かし感はある。まぁ、文化説のようにヨーロッパや日本の文化的優位性を主張されるよりはよっぽどマシではあれど、下手に偶然のせいにするぐらいなら制度の形成原因までは分からないと素直に認めてしまっても良かった気もする(どうせ文化説だって文化の形成原因が分かってる訳ではない)。
この著作の長所はむしろ後半(下巻)に見られる制度の構造への分析にある。つまり、政治制度と経済制度はそれぞれが包括的であるか収奪的であるかによって、政治制度と経済制度とが噛み合うことで好循環や悪循環を生む事になる。権力が独占された独裁制では独裁者が人々から利益を奪おうとばかりするので、経済発展の源となる自由な経済活動を生み出すような経済制度は生じない。経済発展が生じるような経済的な自由と公正さが実現された包括的な経済制度は、権力の多元化と執行の一元化を特徴とした包括的な政治制度の元でのみ持続できる。このように、収奪的経済制度と収奪的政治制度、包括的経済制度と包括的政治制度とは、互いに噛み合って相乗効果を生み出す。たとえ収奪的政治制度の元で一時的に経済成長が生じたとしても、経済制度そのものは収奪的な状態からは変わりがたいので成長は長続きしない(例えば旧ソ連、将来的にはおそらく中国)。この辺りの分析は(余計な脱線もなく)鮮やかであり、本書中の白眉となっている。
ちなみにここで困った勘違いの例を挙げると、包括的政治制度のことを単に民主主義だと思っている人もいるようだが、これは正しくない。多元的な権力関係を実現させるための前提条件として民主主義が要請されるのであって、民主主義なら何でも良い訳ではない、実際に独裁でかつ民主主義という政治制度の例が著作の中に出てくるが、これは収奪的制度として紹介されている。包括的政治制度であるためには、権力の多元化と執行の一元化(本文では中央集権化)が求められるのであり、決められる政治かどうかなんて問題になっていない(むしろ政治に好き勝手な決定をされるのは害が大きい。本書に出てくる憲法を好き勝手に変える支配者の例も参照)。
ネットを見てて思うのは、どうもこの本の主張が勘違いされてるように感じることだ。例えば、地理説や文化説は制度説と排他的な関係にはないことだ。たしかに第二章でこれらの説が批判されてはいるが、別にどれか一つの説だけが正しいとする排他的な選択肢ではない。巻末の文献解説を見ると、別の論文で地理や文化や制度の影響を統計的に分析したとあることからも、それらの影響力を相対的に比較してると分かる。本文を見ても、地理説については「現代世界の不平等を説明するのにそれを敷衍することはできない」(上巻p.89)とあるように大昔まで含めてすべて説明できないとは言っていない。文化説についても「文化とかかわる社会規範は重要であり、変えるのが難しく、ときとして制度の違いを支えることもある」(上巻p.95)とあるように、文化の影響力が全くないと言っているのではなく、あくまで制度と関連がある限りで文化は影響力を持つのだとしている*1。それから国際関係に関しても、確かにその辺の議論が薄いのは確かだが、制度とは無関係に国際関係だけによって繁栄が生じると考えるのも変な話で、国際関係も制度との関連で影響力があると見るのが妥当だろう*2。
一般向けの著作としてよく出来ているとは思うが、さすがにインセンティブや創造的破壊といった経済学の基本的概念についての知識はあった方が読み進め易い(ましてや「経済成長なんていらない!」とか平気でのたまう経済オンチはお話にならないが)。また、この著作では中央集権と言う用語が広い意味で使われているので、包括的制度では権力の多元化と中央集権化が両立することになるので、そこに引っかかってしまうかもしれない。この著作で言われる中央集権化とは(行政や司法の)執行の一元化(つまりはウェーバーが言う所の国家による合法的な暴力の独占)を指しているだけなので、そこは注意したい。
包括的制度というのは特に近代以降になって形成されたものなので、制度説は近代以前にはあまり適用できないはずだ。実際に著作で出される例のほとんどが近代以降の事例であり、地理説に対する制度説の有利さはそこにある(逆にいえば古い時代では地理説が有利でありうる)。ただそれなのに、前半で中途半端に古代の例が出されるのは話をややこしくしていていただけない。石器時代のナトゥフ人の話は(分かりにくいが章題を見れば分かるように)収奪的制度における成長の例だと気づけばまだ問題ないが、共和制期のローマ帝国はそれなりに包括的だったが帝政期になって衰退し始めたという話は、本文では共和制期から帝国末期へと議論が一気に飛んでいて、その間にも長くローマ帝国が続いたことをどう説明する気だ?と疑問が湧いてしまう。そもそも古代文明は制度説によって説明されてなどいない(する必要もない)のだから、何もローマ帝国だけ例外的に取り上げる必要はなかったように感じる。そういう点では前半よりも後半の方が近代以降に事例が限定されている分だけ素直に読む事ができる。それから日本への言及は物足りないが、(文献解説を見れば分かるように)大した資料もないままにおまけ程度に触れてるだけっぽいので目くじら立てるほどではないだろう(ただし、そのくせあちこちで良き制度変革の例として明治維新をよく引き合いに出すのは始末に悪いが)。
ちなみに、ネットでは論文ではあった統計的分析がこの著作にはないことが欠点のように指摘されているが、これはあくまで一般向けの著作であるのだし、統計的分析でさえ制度説の決定的証拠にはなりえない(どっちにせよすべての事例を網羅できる訳じゃない)のだから、それほど気にする必要はないと思う。でも、せめて付録として最小限の統計的分析を加えてくれていても良かったのでは?とは言える。
欧米では年間ベスト本に選ばれているそうだが、それも納得の素晴らしい出来である。日本でのこの本の評判を見ていると、どうもこの本は経済学の本であるという偏見から評価されているように思えてならない。この著作は近代化論という社会科学の伝統的な問題が扱われているのであり、経済に興味のある人だけでなく政治を中心とした社会科学的なテーマに関心を持った人たちにもっと広く読まれてほしいと思う。
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