東浩紀のSF的情報化社会論

ひさしぶりに東浩紀(id:hazuma)の情報化社会に関する考察を読んだ(日経のサイト「ITPlus」*1 )。東浩紀の「情報自由論」は連載中に面白く読んだが、実のところ当時からその論には違和感を感じていた。それは次の理由からだ。

  1. 環境管理型を完全実現した高度ユビキタス社会をいきなり想定するので、話がSFじみて思えること
  2. 環境管理型を批判するのはいいが、その理由が他の選択肢が欲しいなどといった、あまり根拠のない感情論を超えないこと

環境管理型の考え方は、認知科学の知識がある側からすると、むしろなじみのある考え方だ。認知科学における状況的認知や生態学的アプローチでは、人の認知は外側の環境によってその働きが左右されると言う考え方をする。認知科学者であるサッチマンやノーマンの著作では、その考え方がテクノロジーと関連付けられて展開されている。ただしこの場合、人の認知的負担を節約するためにはもっと機械はうまくデザインされなくてはならないと言う肯定的な話になるのだが。
東浩紀のする話はもっと否定的な話だ。勝手に情報を収集する個々の機械に管理されると言う話だ。ただし、機械同士のつながりはないので、中央集権的なビックブラザーではなく、分散的に偏在するリトルブラザーだということになる。言いたい事は分かるが、話がいきなり極端だ。あちこちに見えない機械を配置するユビキタス社会って本当に可能なのか。技術的というより現実的な話としてだ。住民全員がIDカードだのIDチップだのを持っていて、それによって機械が自動的に動くという考え方は分かるが、あまりにSF的すぎて現実には無理だろう。特定の機関や団体に限定すると言うなら話は別だが。現実の複雑さを考えたら、そもそも実験段階で失敗し、決して社会への全面化はされないだろう。むしろ問題なのは、身体を含めたすべてが情報化されることがどういうことか、ではないのか。
認証システムとは身体の情報化、アナログのデジタル化である。それはパスワードとは異なり、当の本人には制御できない情報化である。パスワードはまだ本人の管理が悪いで済むが、身体の情報化はそうはいかない。例えば、指紋の認証は、指紋の型をとれば機械をだますことも可能らしい。じゃあ、虹彩なら静脈なら…という問題ではない。私に言わせれば、デジタルとアナログとでは、あくまで役割や長所が異なり、一方に還元はできない。サッチマンやノーマンによれば、よく考えられた機械でも、身体的・物質的なアナログに勝つのは難しいらしい。アナログの長所がその制御可能性にあるとしたら、デジタルの長所はその交換可能性にある。つまり、誰がどこであろうと情報は同じ事を意味する(情報はエクリチュールではない)。今回のカード情報盗難でも分かる通り、これは欠点でもある。情報が同じなら、偽造カードも本物のカードもまったく同じだ。デジタル情報の怖いところは、それを制御できる人とできない人がいることだ。アナログである身体では、差はあれ、誰でも制御ができる。つまり、デジタル情報の交換可能性は、それを制御するのが得意な人にうまく利用されてしまうということだ。これこそが情報化社会の本当の落とし穴である。
ところで、最初にあげた東浩紀の記事では、ネット上の実名について述べられている。こんなことは、相手にはそれが本名か偽名かは分かりえないというエクリチュール論で反論する方が楽だと思うのだが。

プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性

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誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

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