ルーマンの芸術論からの引用に対する読解

ルーマンの晩年の著作からのある程度まとまった引用を見つけたので、ちょっと読解してみようと思います(日曜社会学>出不ろぐ de√Blog http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050805)。ちなみに、私自身はこの著作を読んだことありませんので、引用部分だけの読解となります(だから、読めるテキストは読者と一緒)。読解するのは、「機能」とはなんでしょう:、より以下に引用されている二つのテキストが基本。引用ページからみると、下のほうがページ数が若いので、そちらから読みますです(じゃないと、読みにくくてしょうがない)。

[p.227]から

まずは、芸術はそもそも誰のものか、と言う話。それは上流階級のものであるという。そんな、俺は貧乏だけど芸術に興味あるよ、とか言わないで。これは歴史的に見てという話。生きる事ばかりに精一杯で芸術なんて、と言うのがもともとの下層階級の人たち。生活に多少余裕が出てきて始めて、芸術と言う余暇を受け入れることができる。しかし、下層階級を脱出してもせいぜい中流階級だから、芸術はろくに理解できない憧れの対象となる。それに対して、上流階級は教養をすでに身につけている。そういう環境で育てられてきたのだから。高級な芸術は彼らに理解を求めるしか他にない。こうして、芸術の階層秩序が生まれる。通俗芸術と高級芸術とに。ましてや、新しい芸術や独創的な芸術の理解は上流階級の中に求めざるを得ない。正確には、前衛芸術を求めるのは、上流階級でも地位の比較的低い人物であり、最上の上流階級は伝統的で権威のある芸術しか認めないだろうが、これは別の話(このあたりは社会学ピエール・ブルデューのほうがくわしい)。ただし、いつの時代も上流階級の興味が芸術にあったわけではないのは、共和制ローマの例からも分かる。

「上層自身が芸術への理解と関心を発達させてきた」との結論を導き出してはならない。

ならば、何が芸術を発展させたのか。

芸術が発展してきたのは明らかに、上層の私的関心事としてよりもむしろ政治的ないし宗教的な領域において公的で共通の事柄を描出することを契機としてであった。

だから、特定の時代にしか芸術は上流階級の関心の的にならないのである。政治的または宗教的な必然性があって、上流階級は芸術を持ち出す。宗教的危機とか政治的堕落とか。しかも、あくまで芸術は階層にかかわらず誰でも理解できるという前提に立っている。だから、公的で共通の事柄を描出すること、を可能にする。たとえそれが幻想に過ぎないにしても。理論上は、芸術はすべての人に開かれている。芸術理解は階層が決めるのではなく、芸術作品そのものが理解者を選ぶと(、とされる)。
政治、経済、学問の各々が、それぞれが閉じたシステムになって、それぞれに特殊な問題に関わる。例えば、国民の意見や利益に関係なく、政治家同士で勝手に話を盛り上げて、政治的決定をしたり。失業者がいようと、環境破壊が起きようと、ともかく勝手にお金が回って言ったり。一般人にはどんな現実的価値があるかに関係なく、学者同士だけで専門用語をぶつけ合ったり、学会で発表したり、難解な著書を発表したり。そういう中で芸術はどうなるのか。メディチ家のように政治的に利用されたりして、他のシステムに追従するだけなのか(単にお金儲けの手段にされたり、単なる研究対象にされたり、とか)。いや、逆に芸術はそれだけでますます自律性を持つようになる。そうルーマンは言っている。

[p.229-230]から

分かりにくい前半部分はすっ飛ばして後半の、「観察者が用いる《問題》《機能》という言葉は」以下から始める。
全体社会理論とは、おそらくここで話しているルーマンの理論のことを指しているのだろう。全体社会理論では、機能よりも布置(構造)の方が重要であるようだ。ある機能があるからそこにあるのではなく、機能はせいぜいある布置を可能にする条件に過ぎないようだ。例えば、空を飛ぶにも、たいていの鳥のように羽をバタバタ動かす場合もあれば、パラグライダーのように羽で風に乗るという場合だってある(つばめ?鷹?)。この世の鳥がすべて前者であることだってありえたはずである。このときは風に乗ると言う後者の鳥は潜在的な可能性に留まる。しかし、そもそも羽がなければ飛ぶと言う行為そのものが不可能でもある。だが、ニワトリのように羽があっても飛べない鳥もいる(ペンギンも?)。飛ぶという機能と動物の体の形態は必ずしも一致してはいない。それは進化の過程で起こったことだ。
「すでに確立されている布置を、代替選択肢への関心のもとで再問題化する」とは、たとえ羽があっても飛ぶことも飛ばないこともありうるということ。飛べる必要がなくなったが、羽をなくす必要はなかったとか「特定の機能の文脈から飛び出すことなく変異と付き合える範囲をコントロールする」とは、羽がどれくらいの長さあれば飛ぶことができるのかということ。羽が大きすぎると目だつから少し小さい方がいいとか。
「芸術の機能についての問いは、観察者によってのみ立てられる」。実はこれって誰でもいいってことだ。「観察者は外的観察者であってもよい」のだから。「その際観察者は、作動によって産出された現実をすでに前提としていなければならない」って、これは当たり前。現実を認めなければ話は先に進まない。「話題となっているシステムも自分自身の観察者でありうる」。ここまでくると???。芸術システムの参加者も芸術の機能を問えるの間違えじゃないのか。芸術システム自身が芸術システムを問うの意味が分からない。
「芸術的コミュニケーションの作動」というのは、芸術作品を創作したり鑑賞したりってことだろう。芸術について話し合うというのが主な意味ではないと思うが、引用が終わっているのでよく分からない。芸術にとって、芸術への問いや答えは必要な条件ではない。芸術の動機はどっかから調達されるのだ(どこからって、書いてない。それこそ、政治や宗教からかな?)。
ここで前半部分に戻る。具体例を見た後だと、抽象的な話も少しは分かりやすい。「ある一つの問題がマークされて(その限りで《関連問題》と呼びうる)、複数の問題解決が比較可能となる」とは、芸術の何か特定のことを問題とし、その解決方法が複数あるということ。「そして選択と代替という作業がなされうるのである」。複数の解決方法という選択からどれかを選ぶことだろう。例えば、空を飛ぶという問題を解決するには、ジェット・エンジンをつけるか、プロペラをつけるかを選ぶ。「代替」はよく分からん。問題が解決されるためにこそ、機能分析は行なわれる。逆に、問題が設定されることで、機能分析の複雑さが低減されて、観察者はシステムを分析しやすくなる。「循環的関係」は引用では言及がないので無視。その後はよくは分からないが、適当に解釈。「関連問題のマーキング」とは、問題を解決するための方向付け、と解釈すると、「マーキングが生じるのは問題解決が与えられている場合のみなのである」は、方向性は問題解決がありえなければ生じえない、という当たり前のことを言っていると解釈できる。その後の、「問題は解決を用いることによって解かれるということになる」はさらに当たり前すぎて、なぜそんなことが書いてあるのかも分からない。
最後に具体例を出す。例えば、ある団体で資金が足りないとする(関連問題)。その問題を解決するために分析をする(機能分析)。誰は資金を使いすぎるとか、資料を多く買いすぎるとか、資金での飲み会はやめようとか、資金源を増やそうとか、パトロンを探そうとか(機能というよりも提案だが、分かりやすさのため)。こうして、資金を節約するという問題解決の方向性が定まり、その方向へと動き出す。つまらん例だ。本当に重要なのは機能分析の方法なのだろうが、ここにはきちんとした言及がないのでしょうがない。ヒントはすでに読解した、テキストの中にあるのだろうが。



これがルーマンの正しい解釈とか思わないこと。私はルーマンなどには、ちっともくわしくない(ルーマンの著作は一冊しか読んだことない)。これはあくまで、テキストの純粋な読解でしかない。しかも、唯一の正しい読解ではありえない。これを参考にして、各自で確かめてください。まともな批判なら受けつけます。ちなみに、読解して欲しいテキストがネット上にあったら知らせてください。私の能力と気力が受け付ければ、読解してみます。短めのまとまったテキストがいいです。ただし、たとえ読解しなかったからといって、恨まないでくれ。では!