アルチュセール「哲学・政治著作集 二」

哲学・政治著作集〈2〉

特異なマキャベリ論だけは一読の価値ありだが、それ以外は単なる資料で面白くはない

フランスの思想家アルチュセールが残したテキストを編集した著作集の第二巻。哲学篇であった第一巻では晩年の唯物論の地下水脈論が目玉だったが、政治篇に当たるこの第二巻では独特なマキャベリ論が断トツに読み応えがある。それ以外は既刊の著作を補う資料的なテキストばかりで、お世辞にも読んで面白い物ではない。しかし、マキャベリ論に関しては(モンテスキュー論でも顔を見せていた)思想史家としてのアルチュセールの本領が発揮されていて面白い。これまでのアルチュセールの思想であったイデオロギー装置論なども生かされてはいるが、なによりも他のマキャベリ論ではあまり見られない「君主論」と「政略論」(「ディスコルシ」)との関係が展開されていて興味深い。アルチュセールマキャベリ論はオリジナルティが高いので、標準的なマキャベリ論を知っておいてからの方がより興味深く読める。この巻の中で読み物として楽しめるのはマキャベリ論だけであるが、難解な思想家としてのアルチュセールを知る者にはその読みやすさと奥深さに驚くはずである。
アルチュセールはフランス現代思想家として一時はよく知られていたが、ブームが過ぎるとあまり読まれなくなった。一般に知られたアルチュセール像は難解なマルクス主義思想家であり、その主要著作はお世辞にも読みやすいものではない(かといって、分かりやすい解説書の類もほぼない)。どうせ難解なフランス現代思想だろ!と倦厭されがちだが、実はアルチュセールにはもう一つの顔がある。それは思想史家としてのアルチュセールである。初期の成果であるモンテスキュー論は(階級闘争論を読み込む所がマルクス主義者らしくはあるが)他の学者にもきちんと認められているような学術書である。「法の精神」に階級闘争を読み込む所がマルクス主義者らしくはあるが、内容はきちんとしたテキスト読解に則ったものである。難解な思想家としてのアルチュセールしか知らない人にはこれを読んでもらって、普通に読める学術的なアルチュセールを体験して驚いてほしいが、この著作にあるマキャベリ論も思想史家としてのアルチュセールの本領が発揮された読みやすいテキストだ。
このアルチュセール「哲学・政治著作集」はアルチュセールの残されたテキストを編集した本だが、哲学篇であった第一巻では晩年の唯物論の地下水脈論が目玉だったが、政治篇に当たるこの第二巻では独特なマキャベリ論が断トツに読み応えがある。それ以外は既刊の主要著作を補うような資料的なテキストばかりで、お世辞にも読んで面白い物ではない。読み物として価値があるのはで「マキャベリと私たち」だけではあるが、それだけでも読む価値がある。基本的にマキャベリの主著である「君主論」と「政略論(ディスコルシ)」の読解と解説をしているのだが、これが他のマキャベリ論では見られないオリジナルな読み方がなされていて、とても興味深い。アルチュセールの思想との関連から見ると階級闘争イデオロギー装置を読み込んでいる所にも関心を引かれるが、やはりマキャベリ論の面白さは「君主論」と「政略論(ディスコルシ)」の関係を展開している点だ。絶対主義的な「君主論」と共和主義的な「政略論(ディスコルシ)」との関係は一見すると対立しているようにも見えてしまう。他の一般的なマキャベリ論ではその辺については一方の側面を強調するか曖昧に誤魔化されていしまうかが多く、その関係が論じられることは少ない。その点このマキャベリ論ではその関係が明確な形で論じられていて説得力がある。(少なくとも日本語の文献では)類似したテーマを扱った著作は見当たらないので、その点では希少な文献でもある。
個人的にこのマキャベリ論で面白いと感じる点は、英語圏の政治理論でなされている共和主義論や徳論と関連付けて読めるところでもある。一般的に、20世紀後半のヨーロッパ大陸の政治思想が英語圏の議論に影響を与えることは少なく、目立つのはハーバーマスの熟議民主主義論への影響ぐらいだ。現実に影響を与えたかどうかはともかく、大陸の現代政治思想を英語圏での現代政治理論と結び付けるのは難しいし実際にあまりなされない。その視点からこのマキャベリ論を読むと、あの難解な現代思想の典型みたいなアルチュセール英語圏で議論されている共和主義論や徳論を見出す事ができることに驚く。そもそも共和主義論は「マキャベリアン・モーメント」以降に盛んになった議論なので、マキャベリ論に共和主義論が入っているのは当たり前にも思えるが、アルチュセールの独特な議論は視点が異なる。絶対主義的な「君主論」と共和主義的な「政略論(ディスコルシ)」との関係を論じていることは既に触れたが、共和主義を成立させるための前提となる徳(ヴィルトゥ)についても、そうした市民的徳は閉じた弱い国家でしか持続しないと指摘されていて、そのアルチュセールのリアリスト振りには感嘆する。市民的徳を成立させるためにこそ君主的徳が必要とされるというアクロバットな議論展開には目を丸くするしかない。
現代思想家としてのアルチュセールとは異なり、思想史家としてのアルチュセールによって書かれたマキャベリ論には明らさまに難解な所がなく読みやすい文章ので、アルチュセールの初心者や倦厭者にもお勧めできる。むしろ、(アルチュセールに関する知識より)マキャベリに関する知識は前もって持っておかないと楽しみづらいので、とりあえずクォンティン・スキナーのマキャベリ論辺りを読んでおくのがお勧めだ(特にヴィルトゥとフォルトゥナが徳と運命を意味していると知らないと困る)。ちなみに、共和主義論や徳論についてはヘルド「民主政の諸類型」の共和主義の章やキムリッカ「新版 現代政治理論」のシティズンシップ理論の章がお勧めです。

おまけ

アルチュセールはグラシムのマキャベリ論にも触れているが、この話は本文には組み込むことができなかった。アルチュセールイデオロギー装置論がグラシムのイデオロギー論から来ていることは知られている。現代思想的な政治思想にはグラシムの影響が大きい。フーコーの生権力論を好む現代思想の残党は未だにいるが、これはグラシムのイデオロギー論を受け継いでいる。そこからさらに派生させてグラシムは抵抗の拠点としての文化論を提示しているが、これはカルスタに受け継がれている。どちらにもマルクス主義的な階級闘争的なイデオロギー批判を引きずっている(悪しきイデオロギー=生権力:良き文化=抵抗の拠点)。これに対してアルチュセールには(イデオロギーや文化に当たる)徳や支配がいかにして可能になるのか?という生態学的な視点が含まれていて、ここにはグラシムからスラッファを通してウィトゲンシュタインヘも伝わった思想が含意されているように見える。そこで、フーコー的な生権力批判ともカルスタ的なサブカルチャー擁護とも異なり、人々が政治的徳を持つように環境を整える君主のような革命家を待望するアルチュセール像が見えてくる。これは単に人々が政治的徳を持つことを望む(人間学存在論!)卓越主義的なシヴィックヒューマニストやコミュタリアン(要はアリストテレス的な共和主義者)でもないが、徳(シティズンシップ)は教えればいいじゃん!という啓蒙主義的な共和主義者とも異なる。物質還元主義とは異なるアルチュセールの(ある種の身体化論にも近い)唯物論の秘密はここにある。

哲学・政治著作集〈2〉

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