認知心理学における英米系と大陸系

「限界の思考」ISBN:490246506X英米系と大陸系と言う話があった。そういえば、認知心理学の理論にも英米系と大陸系がある。そして、その特徴も「限界の思考」で挙げられていた社会学理論の特徴とそっくりだと思った。理論における英米系と大陸系の違いは結構、一般的なものなようだ。
大陸系の代表はピアジェヴィゴツキーだ。のちの認知心理学の先駆であり、認知心理学誕生の地アメリカでも大きな影響があった。しかし、考えてみると、そのじつアメリカではピアジェの理論もヴィゴツキーの理論もその本質は理解されなかったのではないかと言う気がする。実際、ピアジェが有名なアメリカの認知心理学ブルーナーを指して自分の理論を理解していないと言ってたことがある。私がヴィゴツキーの主著「思考と言語」を読んだときも、よく話題にされる最近接領域理論は理論の要ではないじゃないかと思ったのだが、そういた理解もアメリカ経由である。
一方、英米系はどうだろう。認知心理学真っ盛りのアメリカで認知心理学の代表的理論を挙げるのは実は難しい。しかし、面白いことに認知主義批判を行なった代表的な方法である生態学的アプローチも状況論的アプローチもその源泉をたどると、アメリカの哲学プラグマティズムにまでさかのぼることが出来る。生態学的アプローチを提唱したギブソンは哲学者ウィリアム・ジェイムスの愛読者であったし、状況論的アプローチを提唱したサッチマンの著作では哲学者G.H.ミードの著作が取り上げられている。のちのアメリカの心理学に大きな影響を与えたウィリアム・ジェイムスとG.H.ミードこそが英米系の理論の代表者として挙げられる。
アメリカでのピアジェヴィゴツキーの理解の特徴は、ミクロからマクロへの道を取り除いて、あくまでミクロな理論としてのみ理解しようとする。ピアジェの操作と調整やヴィゴツキーの最近接領域理論への注目がその典型だ。ミクロとは個人や個人間でおこる過程への注目である。それに対して、マクロとは人間や社会といった全体や普遍に関わる。ピアジェヴィゴツキーの発達理論では、いかにして子供が人間や社会といった全体へと関係するようになるかを問う。その点で、啓蒙主義ロマン主義と近縁だ。しかし、ウィリアム・ジェイムスとG.H.ミードに代表される英米系の理論では、あくまでミクロな過程にこだわり、そこからマクロへの道は断念している。人間や社会が無視されるわけではないが、それはあくまで個人や個人間の過程になんとなく見出されるだけであり、理論的にでさえ結び付きをあまり示唆しない。あっても、そうした個人や個人間の過程を足し合わせたところに具体的な種や社会を想定するに過ぎない(主流の進化心理学はその典型、機能の足し合わせ)。「限界の思考」で言われてる社会学理論の英米系と大陸系の違いと基本的に同じだ。
ただし悪いが、私は英米系と大陸系の理論との間に優越関係を見出すことは出来ない。日本で遠くから第三者的に観察してると一方に組する気になれない。私もアメリカでピアジェヴィゴツキーの本質が理解されないのは悲しいと思うが、逆に言えばだからこそ具体的な研究をあれだけ進められたのだ。理論の大陸系、研究の英米系、という対立があったからこそ発展があったともいえる。ちなみに私は英米系の理論への評価が高い、ただしプラグマティズムの理論への。アメリカの合理的機能主義の高さには懐疑的にならざるを得ない。プラグマティズムな理論はそれへの解毒剤にもなる。英米系理論ウィリアム・ジェイムスとG.H.ミードにはマクロへの視点がないわけじゃない。重要なのはミクロとマクロとの間の行き来を直結させたり諦めたりしないことなのだろう。英米系と大陸系はそういう意味ではお互いに他者だったのだ。あとはこれから他者なしに安住することにならないように願うしかない。
しかし、日本には他者はいるのだろうか、そして他者の不在をアイロニーで乗り切ることは可能なのか。残念ながら私はどちらにも「ない」と否定的に答えるしかない。