素人による素人のための生成文法と認知言語学の超要点講座
はっきり言って生成文法も認知言語学も認知科学では有名だけど、その割に基本を理解してない人は結構いる。というか、そもそも分かりやすい紹介が日本ではあまり見当たらない。以下の議論では最近の専門的な傾向は無視してます。私だって詳しく知りません。それより一般にはそもそもの基礎さえ理解されてないんですから。あくまで素人による素人のための紹介ということで。
生成文法の基本は主語-動詞関係を基盤にした入れ子構造(または再帰構造)にある。分かりやすく日本語の例で説明しよう*1。一番単純な文は「俺は、うれしい」と主語と動詞との基本構造からなる。典型的な単純な句として「俺の、娘」のような所有格-名詞関係という基本構造も考えられる。こうした基本構造を理解すればあとは簡単だ。これを受け入れてもらえば後は同じような構造を繰り返して無限に文を生成できる。「俺は、娘が合格したのが、うれしい」。この場合は、「俺は、うれしい」と言う文の中に「娘が、合格した」と言う文が挟み込める*2。このように同じような構造を繰り返して適用できるので入れ子構造(または再帰構造)と呼ぶ。文の再帰的な生成の仕方には法則があるのだがここでは省略。ただし、例えば目的語を挿入するにしても日本語と英語では挿入場所が異なる。日本語では動詞の前だが、英語では動詞の後だ(例:俺はペンを持ってる。I have a pen.)*3。しかし、こうしたことは言語ごとの表面的な違いにすぎず、そうした違いを超えて同じ構造がすべての言語には見出せるというのが生成文法の主張だ。生成文法の最大の長所は子供の言語獲得を見事に扱えることだ*4。チョムスキーのスキナー批判は有名だ。子供が言語に触れた頻度だけで言語を学べるわけがない、それにしちゃ触れたこともないような新しい文を子供は平気でしゃべれるのだが…(人には普遍的な文法獲得能力が備わっているのだ!)。
認知言語学の基本的考え方は、身体的経験を基盤にしてそこから応用することにある。認知言語学の生成文法への批判は、文法だけを取り出した抽象的な議論に対してだ。だから具体的な身体経験を基盤にした議論を発展させた。例えば、「江戸時代に大火があった」と言う文で、時代や出来事に「あった」という存在語を使うのは文字通りに存在するわけはないのでメタファーである。こうした文は、空間に物が「あった」(例文「公園に滑り台があった」)という身体で経験できる文が源になって出来上がっている。こうしたメタファー(広くはレトック一般)はどの言語でも日常的に当たり前に使われているのものである*5。そうしたメタファーへの適用の元となる文は現実の身体経験から得られるのである。言語を成立させるそうした身体経験からの源はイメージスキーマとかプロトタイプとかと呼ばれる。あえて認知言語学の欠点を言うと、生成文法のように普遍的法則を見つけるのが目的ではなく、個々の言語の例からの記述が中心となるので、客観性がないとか何でもありとか言われることも多い。しかし、生成文法は基本的に言語間の共通点を見つけることを目的としてるが、認知言語学は言語間の比較をするのに適しているとも言える。つまり言語ごとにどのようなメタファーやプロトタイプからの拡張が行われるかの特色の違いを調べることができる。だから上記の批判はあまり当たっていないとも言える*6。
私の後知恵で言わせてもらうと、生成文法と認知言語学とは扱う領域(側面)が結構違うので実は思われているほどは大して対立してないんじゃないかという気もする。前者は文法を得意とするが、後者は意味を得意とする *7。実のところ生成文法と認知言語学とは相補的な関係にあると言うのが実情ではないのか。とはいえ、学問的な対立関係は生産的である限りは価値があるし、対立があるからこそ新しい理論や見解が現われるともいえる。そう考えると日本での批判や対立はあまりに生産的でないことが多すぎやしないか。そんなぐらいなら学説の要点をきちんと理解して、長所も短所も共にあぶり出してしまうほうがよっぽど良いのではないか。所詮は輸入学問だからこそ正確な理解が必要となる(逆に輸入学問ってだけで無視するとたいていつまらない罠にはまるが)。自己目的化したつまらん学問はいりません。*8
- 文献案内
生成文法の代表はなんといってもチョムスキー(他にもピンカーやジャッケンドフなど)、認知言語学の代表はレイコフ、ラネカー、フォコニエなど。読むなら適当な入門書でいいが、どうせなら翻訳で。入門で読みやすいのなら、生成文法ならピンカー「言語を生み出す本能」、認知言語学ならレイコフ&ジョンソン「レトリックと人生」でどうでしょうか。
追記:新書なら、町田健の生成文法入門isbn:433403344Xタファー思考isbn:4061492470。
- 代表的な文献はこちらの年表も参照してください。
認知科学年表(増補版):英語原典版つき http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/10000000/p1
*1:生成文法は英語を中心としたインド-ヨーロッパ系言語への適用には優れているが、日本語となるとあやしい。といってもバカが勘違いするように全然ダメではない。日本語は特殊じゃねえよ
*2:さらに複雑にすれば、「俺の上司は、俺は娘が合格したのがうれしい、と思っている」といくらでもできる
*3:他にも、疑問文を作るにしても、英語では主語と(隠れた)助動詞の順を取り替えるが、日本語では文末に「か」を付ける。
*4:すいません。トマセロを知る前に書きました。認知言語学でも今では構文文法で言語獲得が積極的に扱われている
*5:そういえば、この論考のはじめの方に出てくる言葉「思い切る」や「言い切る」での「切る」はまさにメタファーだよね。実際に切ってないじゃん。切るというのは物を二つに分けることであるから、今までの思いや言い方の部分を切りとるイメージかな。じゃあ、「やり切った」や「なり切った」は?とかは自分で考えてくれ
*6:むしろ法則の発見より現実の記述が中心であることは欠点ではなく、結局は研究者の能力しだいでヘボな論文にも至上の論文にもなりうるということでもある。読者も研究者も心してかかるべし
*7:この認識は今となっては古臭いですかね。最近のチョムスキーが再帰性を重視するのは認知言語学と違いを出すことが目的に思える。
*8:ネット上でたまに端的に生成文法の悪口を言う人がいるけど、そういう人はまず理解してないと思ってよい。生成文法は数学や論理が分からないと理解しづらいから、バカが自分の頭の悪さを置いといて非難へと沸き上がりがちだ。批判するなら適切な要約と問題点の指摘ぐらいしよう。対して、認知言語学はネット上ではお気に入りの人が目に付く。思い切って言い切ってしまうと、認知言語学は生成文法よりも直感的に理解しやすく入りやすいので、バカがそれに追従しやすい。特に最近は言語学への専門化が進んでいるので、結果として認知言語学(特にレトリック論)は学者の論文生成装置になりやすい。実際に日本で論文の数は多いがつまらないのも目に付く(日本には恐ろしくレベルの高い研究があるだけに余計に目障り)。認知意味論ってもともとは言語から思考を考える上でメタファーを重視したはずなのにねぇ